有名度
前頭上位若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじゃ
大分県豊後高田市高田671
大分県豊後高田市高田671

Bpcon98(wikipedia CC0)
若宮八幡神社以外にも 若宮様 とも呼ばれます。
かんたんご利益
御祭神
主祭神
大鷦鷯尊 おほさざきのみこと
配祀
天照大御神 あまてらすおおみかみ
配祀
玉祖命 たまのおやのみこと
配祀
品陀別命 ほむたわけのみこと
配祀
隼総別皇子 はやぶさけのみこ
配祀
大葉枝皇子 おおはえのおうじ
配祀
小葉枝皇子 おはえのおうじ
配祀
雌鳥皇女 めとりのおうじょ
配祀
多岐都比売命 たぎつひめのみこと
配祀
多紀理毘売命 たぎりひめのみこと
配祀
市寸嶋比売命 いちきしまひめのみこと
配祀
天之忍穗耳命 あめのおしほみみのみこと
配祀
天之菩卑能命 あめのほひのみこと
配祀
天津日子根命 あまつひこねのみこと
配祀
活津日子根命 いくつひこねのみこと
配祀
熊野久須比命 くまのくすびのみこと
神社系統
この神社の主な系統は
「若宮八幡系」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
若宮八幡神社は大分県豊後高田市に鎮座する神社。御祭神は大鷦鷯尊、天照大御神、玉祖命、品陀別命、隼総別皇子、大葉枝皇子、小葉枝皇子、雌鳥皇女、多岐都比売命、多紀理毘売命、市寸嶋比売命、天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須比命の16柱をまつる。
社格は旧県社。
創祀は平安時代前期の仁寿2年(852)と伝えられる。これに先立つ天長元年(824)、豊前国宇佐郡に住んでいた大神朝臣蘊麿の母・酒井門主女に神託が下った。仁寿2年(852)12月、宇佐宮造営使の藤原朝臣勝主と香上宿祢永貞に依頼して社殿が造営され、祭祀が始められた。
祭神のうち天照大御神、玉祖命、品陀別命については、養老2年(718)、現在の豊後高田市御玉にあった璞を神体として祀ったと伝えられている。
平安時代後期の永保4年(1084)には、神輿が桂川を渡る川渡し神事が始まったと伝えられる。この神事は現在も秋季大祭の裸祭りで行われている。
戦国時代には、元亀2年(1571)と天正7年(1579)の2度にわたって大友氏の兵火を受け、社宝や財物、牛馬などを失ったと伝えられる。文禄年間(1592~1596)には、高田城に入った竹中重隆が社殿を造営した。
江戸時代の寛文9年(1669)には、松平主殿頭によって封内の宗祠と定められ、その後も歴代領主の崇敬を受けた。天保4年(1833)には、当時高田を領有していた島原藩主・松平忠侯によって現在の本殿が造営された。境内に残る金剛棟札にも天保4年の造営が記され、造営に携わった職人らの名が残されている。
安政5年(1858)には唐門が造営された。屋根内部の墨書には造営年とともに「工匠後藤熊四郎勝美作」と記されており、豊後高田市中伏出身の大工・後藤熊四郎が手掛けたことが確認されている。万延元年(1860)には、神門前の小川に石造反橋が架けられた。
昭和30年(1955)、桂川の河川改修に伴って境内が約80m東へ移され、境内林も伐採された。現在の境内林は、移転後に植林されたものである。
本殿は三間社流造、桧皮葺で、正面に千鳥破風と唐破風を備える。総ケヤキの素木造で、各所に彫刻が施されている。本殿、申殿、唐門、西門は2017年3月7日に大分県指定有形文化財となった。申殿は本殿と拝殿の間に建ち、柱、長押、台輪、組物、垂木、懸魚などに江戸時代の主要部材が残る。西門には雲、虎、獅子などの彫刻が施されている。
万延元年(1860)に造られた石造反橋は、幅4.07m、長さ3m、径間3.08mで、1983年4月12日に大分県指定有形文化財となった。
秋季大祭の裸祭りでは、神輿の川渡し神事が行われる。お下りとお上りで神輿が桂川を渡り、川岸では大松明が焚かれる。永保4年(1084)に始まったと伝えられる900年以上の歴史を持つ祭礼で、日本三大裸祭りの一つとされている。
社格は旧県社。
創祀は平安時代前期の仁寿2年(852)と伝えられる。これに先立つ天長元年(824)、豊前国宇佐郡に住んでいた大神朝臣蘊麿の母・酒井門主女に神託が下った。仁寿2年(852)12月、宇佐宮造営使の藤原朝臣勝主と香上宿祢永貞に依頼して社殿が造営され、祭祀が始められた。
祭神のうち天照大御神、玉祖命、品陀別命については、養老2年(718)、現在の豊後高田市御玉にあった璞を神体として祀ったと伝えられている。
平安時代後期の永保4年(1084)には、神輿が桂川を渡る川渡し神事が始まったと伝えられる。この神事は現在も秋季大祭の裸祭りで行われている。
戦国時代には、元亀2年(1571)と天正7年(1579)の2度にわたって大友氏の兵火を受け、社宝や財物、牛馬などを失ったと伝えられる。文禄年間(1592~1596)には、高田城に入った竹中重隆が社殿を造営した。
江戸時代の寛文9年(1669)には、松平主殿頭によって封内の宗祠と定められ、その後も歴代領主の崇敬を受けた。天保4年(1833)には、当時高田を領有していた島原藩主・松平忠侯によって現在の本殿が造営された。境内に残る金剛棟札にも天保4年の造営が記され、造営に携わった職人らの名が残されている。
安政5年(1858)には唐門が造営された。屋根内部の墨書には造営年とともに「工匠後藤熊四郎勝美作」と記されており、豊後高田市中伏出身の大工・後藤熊四郎が手掛けたことが確認されている。万延元年(1860)には、神門前の小川に石造反橋が架けられた。
昭和30年(1955)、桂川の河川改修に伴って境内が約80m東へ移され、境内林も伐採された。現在の境内林は、移転後に植林されたものである。
本殿は三間社流造、桧皮葺で、正面に千鳥破風と唐破風を備える。総ケヤキの素木造で、各所に彫刻が施されている。本殿、申殿、唐門、西門は2017年3月7日に大分県指定有形文化財となった。申殿は本殿と拝殿の間に建ち、柱、長押、台輪、組物、垂木、懸魚などに江戸時代の主要部材が残る。西門には雲、虎、獅子などの彫刻が施されている。
万延元年(1860)に造られた石造反橋は、幅4.07m、長さ3m、径間3.08mで、1983年4月12日に大分県指定有形文化財となった。
秋季大祭の裸祭りでは、神輿の川渡し神事が行われる。お下りとお上りで神輿が桂川を渡り、川岸では大松明が焚かれる。永保4年(1084)に始まったと伝えられる900年以上の歴史を持つ祭礼で、日本三大裸祭りの一つとされている。
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神社詳細
摂末社・境内社
情報募集
例祭
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文化財
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建築
本殿 三間社流造檜皮葺
神紋
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出典
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%AE%AE%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B8%82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%AE%AE%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B8%82)
