誉田別尊(応神天皇)
ほんだわけのみこと(おうじんてんのう)
- 神話・伝説
- 男神・男性
祭神ランキング1位
誉田別尊(応神天皇)とは?
誉田別尊・応神天皇は記紀に登場する第15代天皇であり、後世に神として祀られた人物である。仲哀天皇と神功皇后を父母に持ち、仁徳天皇をはじめ多くの御子がいる。古事記では品陀和気命、品陀天皇など、日本書紀では誉田別尊、誉田天皇などと表記される。胎中天皇とも呼ばれ、神功皇后が身ごもったまま新羅へ出兵したという記紀の伝承と結びついている。
記紀では、神功皇后が遠征から帰った後に筑紫で生まれたと伝えられる。成長後に皇位につき、応神天皇となった。応神天皇の時代には渡来人に関する記事も多く、阿直岐や王仁らが渡来し、さまざまな技術や文化が伝えられたと記紀は伝える。
後世、八幡神は応神天皇と同一視されるようになり、誉田別尊は全国の八幡宮で広く祀られる神となった。ただし、八幡神が最初から応神天皇そのものであったと確認できるわけではない。宇佐を中心に成立した八幡信仰の中で応神天皇との結びつきが形成され、やがて両者が強く同一視されるようになった。神社ファンでは、記紀の天皇である誉田別尊・応神天皇と、信仰の中で形成された八幡神を別の神として登録している。
八幡神は奈良時代には東大寺大仏造立を助けた神として朝廷から崇敬され、神仏習合によって八幡大菩薩と称されるようになった。平安時代以降には清和源氏が氏神として崇敬し、源氏の勢力拡大とともに八幡信仰も各地へ広がった。武家から弓矢八幡、軍神として厚く信仰される一方、国家鎮護や地域の守護神としても広く祀られている。
宇佐神宮には、八幡大神が誉田別尊であるとする伝承が受け継がれており、現在も誉田別尊を八幡大神として祀る。石清水八幡宮や鶴岡八幡宮などでも誉田別尊が祀られ、全国各地の八幡宮に広く信仰が広がっている。
これらのことから、誉田別尊・応神天皇のご利益は国家鎮護、殖産興業、勝運招来、出世開運、家運隆昌、交通安全、災難除け、悪疫退散などとされる。
誉田別尊・応神天皇を祀る代表的な神社には、宇佐神宮(大分県宇佐市)、石清水八幡宮(京都府八幡市)、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)などがあり、このほか全国各地の八幡社、八幡宮で広く祀られている。
エピソード
応神天皇の誕生は、母である神功皇后の新羅遠征と結びつけて語られている。記紀では、後の応神天皇は神功皇后が遠征へ向かう時点ですでに胎内におり、皇后の帰還後に筑紫で誕生したとされる。
『古事記』では、仲哀天皇の死後、神功皇后が海を渡って新羅へ向かう際、すでに出産の時期を迎えていたという。皇后は石を腰に巻き、出産を遅らせることを願い、遠征から戻った後に筑紫で御子を産んだ。この御子が品陀和気命《ほむだわけのみこと》、後の応神天皇である。
『日本書紀』にも、神功皇后が新羅へ向かう際にはすでに身ごもっており、帰還後に筑紫で誉田別皇子を出産したとする伝承が記されている。『古事記』と『日本書紀』では細部に違いがあるため、遠征の経緯や出産を遅らせる方法まで一つの物語として混ぜることには注意が必要である。
父の仲哀天皇が亡くなった後に生まれた誉田別尊は、その後、異母兄にあたる香坂王・忍熊皇子との争いを経て皇位へつながっていく。応神天皇の出生伝承は、神功皇后の物語と切り離せない形で記紀に組み込まれているのである。
後世の八幡信仰でも神功皇后は応神天皇とともに重要な祭神となり、石清水八幡宮では応神天皇・比咩大神・神功皇后を祀っている。応神天皇の出生をめぐる母子の物語は、後の八幡信仰を理解するうえでも重要である。
出典・参考:『古事記』中巻、『日本書紀』神功皇后紀、石清水八幡宮
応神天皇の少年期にまつわる不思議な伝承が、越前国《えちぜんのくに》(福井県)の気比大神との「名易え」である。応神天皇の名前を考えるうえでも興味深い説話だが、実際にどのように名前が交換されたのかについては複数の解釈がある。
『古事記』では、神功皇后が太子となった応神天皇を禊のために角鹿《つぬが》(現在の福井県敦賀市)へ向かわせた。武内宿禰に伴われて角鹿へ赴くと、その地に鎮座する伊奢沙和気大神が夢に現れ、自分の名と太子の名を交換したいと告げた。
太子が承諾すると、大神は名を交換したしるしとして贈り物をすると告げる。翌朝、浜へ出ると、浦一面にイルカが寄っていた。太子は神が自分に食物となる魚を与えてくれたとして大神を御食津大神《みけつおおかみ》とたたえ、これが気比大神の名につながったと『古事記』は伝えている。
ところが、「名を交換した」といいながら、交換によってどちらがどの名を得たのかは本文から明確には分からない。名を互いに交換したとする説、太子の名を大神へ与えたとする説、大神の名を太子へ与えたとする説などがある。『日本書紀』にもこの名易えに関する注記があるが、確定できないとしている。
現在の気比神宮では、伊奢沙別命とともに応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰なども祀られている。応神天皇と気比大神との名易えは、若き日の応神天皇と北陸の有力な神との特別な関係を伝える珍しい説話である。
出典・参考:『古事記』中巻、『日本書紀』神功皇后紀、國學院大學 古典文化学事業
応神天皇の治世について記紀が繰り返し伝えているのが、朝鮮半島から人々や技術、文物がもたらされたという記事である。後世には八幡神と結びつき武神として知られるようになる応神天皇だが、記紀の天皇像を見ると、渡来人と新しい文化の伝来も大きな位置を占めている。
『古事記』では、百済から和邇吉師《わにきし》が献上され、『論語』10巻と『千字文』1巻をもたらしたとする。また、鍛冶や機織りなどに関わる人々が渡来したことも記されている。
『日本書紀』にも百済から王仁《わに》が来朝したとする記事があり、阿知使主とその子の都加使主《つかのおみ》が一族を率いて渡来したことなどが伝えられている。
さらに『古事記』では、新羅から来た人々を武内宿禰が率いて池を築き、百済池と呼んだとする。一方、『日本書紀』では高麗・百済・任那・新羅から来た人々に池を造らせ、「韓人池」と呼んだと記しており、記紀で内容には違いがある。
ただし、こうした記事をそのまま実年代の出来事として扱うことには注意が必要である。王仁の伝承をはじめ、記紀に記された渡来記事には後世の氏族伝承などとの関係も指摘されている。
それでも、記紀が応神天皇の時代を、大陸・朝鮮半島から人々と新しい知識や技術がもたらされた時代として描いていることは確かである。武神として知られる後世の姿とは異なる、応神天皇のもう一つの重要な側面である。
出典・参考:『古事記』中巻、『日本書紀』応神天皇紀
現在、多くの八幡宮では応神天皇が祭神として祀られている。しかし、『古事記』『日本書紀』に「応神天皇が死後に八幡神となった」という物語が記されているわけではない。応神天皇と八幡神の結びつきは、後世の八幡信仰の展開の中で形成されたものである。
八幡信仰の重要な拠点となったのが、豊前国《ぶぜんのくに》(大分県)の宇佐である。宇佐の八幡神は奈良時代には東大寺大仏造立への協力などを通じて国家との関係を深め、託宣を行う神としても大きな影響力を持つようになった。
一方、八幡神を応神天皇とする認識は、こうした信仰の歴史の中で形成されていった。後世の八幡縁起では、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇をめぐる物語と八幡神の信仰が結びつけられ、応神天皇を八幡神として捉える伝承が展開していく。
平安時代には宇佐から京都の石清水へ八幡神が勧請され、現在の石清水八幡宮でも中御前に応神天皇(誉田別尊)、西御前に比咩大神、東御前に神功皇后を祀っている。
したがって、誉田別尊/応神天皇と八幡神の関係を説明する場合、「応神天皇はもともと八幡神という神だった」とするのは適切ではない。記紀に登場する第15代天皇の応神天皇と、宇佐を中心に信仰された八幡神が、後世の信仰の展開の中で同一視されるようになったと整理する必要がある。
出典・参考:『古事記』中巻、『日本書紀』応神天皇紀、『続日本紀』、石清水八幡宮、八幡縁起関係資料
応神天皇と結びついた八幡神の大きな特徴が、早い時期から仏教と深く結びついたことである。その象徴となる呼称が「八幡大菩薩」であり、八幡神は神でありながら菩薩号を持つ存在として信仰されるようになった。
奈良時代、宇佐の八幡神は東大寺の大仏造立に協力する神として朝廷から重視された。天平勝宝元年(749)には八幡神が都へ迎えられ、大仏を礼拝したことが『続日本紀』に記されている。神が仏法を守護するという八幡信仰の性格は、この時代から明確になっていった。
その後、八幡神には「八幡大菩薩」の称号が用いられるようになり、神仏習合を代表する神の一つとなる。平安時代には宇佐から京都の石清水八幡宮へ八幡神が勧請され、国家鎮護の神として朝廷から厚い崇敬を受けた。石清水八幡宮では現在も応神天皇を誉田別尊として祀っている。
つまり、応神天皇をめぐる信仰には二段階の大きな変化がある。まず歴史上の天皇である応神天皇が八幡神と同一視され、その八幡神が仏教と結びついて八幡大菩薩として信仰されるようになった。
現在の誉田別尊を理解するには、記紀に記された応神天皇の事績だけでは十分ではない。八幡信仰と神仏習合という長い歴史を経て、その神格が大きく広がっていったことも重要である。
出典・参考:『続日本紀』、石清水八幡宮、八幡縁起関係資料
誉田別尊/応神天皇は、八幡神と同一視されるようになったことで、武神・弓矢の神としての性格も強く持つようになった。しかし、記紀の応神天皇の記事だけから、現在知られる「武神・八幡さま」という姿が直接成立したわけではない。
八幡神は国家鎮護の神として朝廷から崇敬され、平安時代には宇佐から京都の石清水へ勧請された。その後、八幡信仰と特に深く結びついたのが源氏である。
石清水八幡宮によれば、源頼信は応神天皇を自らの遠祖として意識し、その山陵に任国の安穏と家門繁栄を願う願文を奉納している。その子孫である源頼義・義家も八幡神を篤く崇敬し、義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」と称した。源氏が八幡神を氏神として尊崇したことで、もともとあった武神・弓矢の神としての信仰はさらに強くなったと石清水八幡宮は説明している。
さらに源頼義は前九年の役の後、石清水八幡宮の神霊を鎌倉の由比ヶ浜へ祀ったとされる。後に源頼朝が鶴岡八幡宮を整備すると、八幡神は鎌倉幕府と深く結びつき、武家の守護神としての性格をいっそう強めていった。
したがって、誉田別尊/応神天皇が武神として知られるようになったのは、応神天皇自身の生前の戦績だけを理由とするものではない。八幡神との同一視、国家鎮護の信仰、そして源氏をはじめとする武士の崇敬が重なり、武神・弓矢の神としての神格が形成・強化されていったのである。
出典・参考:石清水八幡宮「石清水八幡宮にまつわる話」、八幡信仰関係資料
誉田別尊/応神天皇を祭神とする神社が全国に多く存在する背景には、八幡信仰が古代から中世にかけて、国家・仏教・武士と結びつきながら広がった歴史がある。
八幡信仰の重要な拠点となったのが豊前国《ぶぜんのくに》(大分県)の宇佐である。奈良時代には八幡神が東大寺大仏造立に関わり、国家的な神として存在感を強めた。
平安時代の貞観元年(859)には、大安寺の僧・行教が宇佐で八幡大神の託宣を受けたとされ、その神霊が京都近郊の男山へ勧請された。これが石清水八幡宮の起源とされる。石清水八幡宮は国家鎮護の神として朝廷から崇敬され、八幡信仰の新たな中心地となった
さらに八幡神を氏神とした源氏の勢力拡大も、八幡宮の広がりに大きな影響を与えた。源頼義は石清水八幡宮の神霊を鎌倉や河内へ勧請し、後に源頼朝によって鶴岡八幡宮が武家政権の重要な祭祀の場となった。石清水八幡宮も、宇佐・石清水・鶴岡へとつながる八幡宮の勧請が全国各地へ広がったとしている。
八幡神は、国家鎮護の神、仏教を守護する八幡大菩薩、武士の守護神など、時代ごとに新たな性格を加えながら信仰を拡大した。その八幡神と応神天皇が同一視されたことで、全国の八幡宮に誉田別尊・応神天皇を祀る信仰も広がっていったのである。
出典・参考:『続日本紀』、石清水八幡宮、八幡信仰関係資料
出典文献
古事記
日本書紀
先代旧事本紀
播磨国風土記
常陸国風土記
神格
ご神徳
別称・異称
ほんだわけのみこと
古事記
品陀天皇ほんだのすめらみこと
古事記
大鞆和気命おおともわけのみこと
古事記
品太天皇ほんだのすめらみこと
古事記/先代旧事本紀/播磨国風土記/常陸国風土記
誉田別尊ほんたわけのみこと
日本書紀/先代旧事本紀
誉田別皇子ほんたわけのみこ
日本書紀/先代旧事本紀
誉田天皇ほんたのすめらみこと
日本書紀/肥前国風土記/続日本紀/日本後紀
誉田尊ほんたのみこと
先代旧事本紀
誉田皇太子尊ほんたのひつぎのみこのみこと
先代旧事本紀
応神天皇おうじんてんのう
続日本紀
保牟田別大神ほんだわけのおおかみ
その他
品佗和気命ほんだわけのみこと
その他
品多別命ほんだわけのみこと
その他
品太別命ほんだわけのみこと
その他
品太和気命ほんだわけのみこと
その他
品田別命ほんだわけのみこと
その他
品田和気命ほんだわけのみこと
その他
品蛇別命ほんだわけのみこと
その他
品陀別命ほんだわけのみこと
その他
品陀別天皇ほんだわけのすめらみこと
その他
品陀別気命ほんだわけのみこと
その他
本多別命ほんだわけのみこと
その他
本田別命ほんだわけのみこと
その他
誉田分命ほんだわけのみこと
その他
誉田別天皇ほんだわけのすめらみこと
その他
誉田別皇命ほんだわけのみこと
その他
誉田和気命ほんだわけのみこと
その他
誉田皇命ほんだすめらみこと
その他
誉田皇子ほんだのみこ
その他
誉陀和気命ほんだわけのみこと
その他
祀られている主な神社
鶴岡八幡宮
(神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31)
根津神社
(東京都文京区根津1-28-9)
今戸神社
(東京都台東区今戸1-5-22)
代々木八幡宮
(東京都渋谷区代々木5-1-1)
大宮八幡宮
(東京都杉並区大宮2-3-1)



