豊烈神社 - 神社ファン

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豊烈神社

ほうれつじんじゃ

山形県山形市桜町7-47

😞 🙁 😐 🙂 😄

山形県山形市桜町7-47

かんたんご利益

  • 健康
  • 仕事
  • 安全
  • 厄除
豊烈神社には

「健康系」「仕事系」「安全系」「厄除・開運系」

のご利益があります。
※かんたんご利益はご利益をジャンル毎に分けわかりやすく表示したものです。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。

ご利益

想

災難除け 疫病除け 五穀豊穣 諸産業守護 海上安全 商売繁盛

御祭神

神社系統

この神社の主な系統は

「不明(2柱)」 「祇園・須佐系」 「三島・大山祇系」 「稲荷系」

です。
※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。

由緒・歴史 | 特徴

豊烈神社は山形県山形市に鎮座する神社。御祭神は水野忠元公、水野忠邦公、八坂大神(素盞雄尊)、山ノ神(大山祇命)、稲荷大神(倉稲魂姫)、明治維新殉難者(山形藩士24柱)の6柱をまつる。
社格は旧県社。
豊烈神社の創建は文政4年(1821)である。遠江国浜松城主の水野忠邦が藩祖・水野忠元の御神霊を浜松城内に祀り、朝廷から「豊烈霊神」の称号を賜った。忠元の命日にあたる10月6日が例祭日とされ、藩祖祭祀では打毬も行われた。
弘化5年(1848)、水野忠邦の子・水野忠精が山形へ移封されると、豊烈神社も浜松から山形城二の丸内へ遷座した。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、山形藩が奥羽越列藩同盟に加わった。藩主の水野忠弘らが京都に滞在するなか、山形では首席家老の水野三郎右衛門元宣が藩政を指揮した。山形藩は新政府に降伏し、元宣は藩の責任を負って明治2年(1869)に処刑された。
明治3年(1870)、水野忠弘が近江国朝日山へ移封されると、豊烈神社は山形城内から山川(現在の茨城県結城市)へ遷座した。水野家が山形を離れた後も旧山形藩士による祭祀は続き、明治13年(1880)には水野忠元の御分霊を山川から勧請し、旧山形城三の丸内にあたる現在地に豊烈神社を建立した。
明治35年(1902)には境内に水野三郎右衛門元宣の銅像が建立された。明治41年(1908)には香澄町内の八坂神社、稲荷神社、山神社を合祀し、素盞雄尊、倉稲魂姫命、大山祇神を祭神に加えた。
大正2年(1913)には山川に鎮座していた豊烈神社の本社を現在地へ遷座して合併し、大正10年(1921)には水野忠邦を英烈霊神として合祀した。
昭和3年(1928)には昭和天皇の御大典を記念して神輿を新調した。昭和18年(1943)には水野三郎右衛門元宣の銅像が戦時供出され、昭和21年(1946)に新たな像が建立された。
昭和30年(1955)には、水野三郎右衛門元宣と山形防衛戦で戦死した大久保伝平知敬以下23柱を合わせた山形藩士24柱を合祀した。昭和33年(1958)には境内に香澄稲荷神社を建立して稲荷大神を本殿から分祀し、昭和56年(1981)には本殿を改築した。
例大祭は毎年10月6日に行われ、神輿渡御と古式騎馬打毬が奉納される。打毬は文政4年(1821)に水野家の藩祖祭祀で始まり、山形では明治16年(1883)から奉納されている。紅白各3騎の騎手が毬杖で毬をすくい、毬門の的穴へ投げ入れて競うもので、平成18年(2006)に山形県指定無形民俗文化財に指定された。宮内庁と青森県八戸市にも伝わる古式の打毬が、豊烈神社でも受け継がれている。
  • 県社
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出典
山形県神社庁
https://yamagata-jinjyacho.or.jp/