水野忠邦
みずのただくに
- 歴史的人物
- 男神・男性

椿 椿山 - 首都大学東京図書情報センター所蔵(パブリック・ドメイン)
祭神ランキング1527位
- 藩主(唐津藩
- 浜松藩)老中
江戸 [1794年~1851年]
水野忠邦とは?
水野忠邦(1794-1851)は江戸時代後期の大名、老中。肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。水野忠光の次男。長兄は早世したため、1812年に父・忠光の隠居に伴い家督を継ぐ。幕閣としての出世欲が強く、いわゆる賄賂を使って奏者番となった。昇格の障害となるなら家臣の諫言を押し切り、生まれ育った唐津藩から浜松藩への転封を願い出て実現させるなど、その出世欲には目を見張るものがある。この転封の際には家老の二本松義廉が諌死するほどであった。また、この時唐津藩の一部が天領となったので賄賂として差し出されたのではないかと、その地域の住民から後年まで恨みを買っている。しかしこの一連の国替え騒動により忠邦の名は幕閣でも評判となり、寺社奉行を兼任することとなった。その後、大阪城代、京都所司代、西の丸老中を経て、1839年に老中首座となり、天保の改革を断行した。「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めたが、庶民をはじめ幕閣にも反対する者が多く、結果的に老中を罷免されて失脚した。1844年に老中首座に再任されるがたびたび病欠し、合間合間に天保改革時に自分を裏切った者への報復などを行う間に強制隠居・謹慎を命じられ、併せて出羽国山形藩に懲罰的転封された。1851年、58歳で死去。 山形県山形市にある豊烈神社では、水野忠邦を主祭神として祀っている。
ご神徳
ご神徳は不明です。
