吉備真備
きびのまきび
- 歴史的人物
- 男神・男性

月岡芳年

玉蘭斎貞秀(神佛図會)

菊池容斎(前賢故実)
祭神ランキング207位
- 学者
奈良 [695年~775年]
吉備真備とは?
吉備真備(695-775)は奈良時代の学者・政治家。もとの名は下道真備で、吉備国の豪族である下道氏の出身とされる。父は下道圀勝。のちに吉備朝臣の氏姓を賜り、吉備真備と称した。
霊亀2年(716)、遣唐留学生に選ばれ、翌年に阿倍仲麻呂や玄昉らとともに唐へ渡った。唐では約18年間にわたり、儒学、歴史、天文学、暦学、音楽、兵学など幅広い学問を修めたとされる。天平7年(735)に帰国すると、多くの書物や文物を持ち帰り、その学識を評価されて朝廷で重用された。
帰国後は橘諸兄のもとで活躍し、聖武天皇や孝謙天皇にも仕えた。しかし藤原仲麻呂が勢力を強めると、筑前守などに転じて中央政界から遠ざけられた。天平勝宝4年(752)には遣唐副使として再び唐へ渡り、翌年帰国した。この帰国船団には、日本への渡航を繰り返し試みていた唐僧・鑑真も加わり、真備と同じ遣唐使船団によって日本へ渡っている。
天平宝字8年(764)、藤原仲麻呂が孝謙上皇・道鏡らに対して兵を挙げると、真備は中衛大将に任じられ、軍事上の献策や指揮によって恵美押勝の乱の鎮圧に大きく貢献した。長年唐で学んだ兵学の知識を生かしたともいわれる。その後さらに昇進し、天平神護2年(766)には右大臣となった。地方豪族の出身者が右大臣まで昇進するのは異例であり、奈良時代を代表する学者・政治家の一人となった。
吉備真備は生前から博学で知られたが、後世にはその知識と遣唐使としての経験を背景として、超人的な知者として伝説化された。中世に成立した『吉備大臣入唐絵巻』などに描かれる吉備大臣入唐譚では、唐人からさまざまな難題を課されながら、その知恵によって切り抜ける人物として描かれている。また囲碁や陰陽道などさまざまな文化・技術を日本へ伝えた人物とする伝承も生まれ、学問や知恵に優れた人物として信仰されるようになった。
吉備真備は大阪天満宮境内の吉備社、兵庫県尼崎市の吉備彦神社、鳥取県鳥取市の賀露神社などで祭神として祀られている。吉備彦神社や賀露神社には真備と当地との関係を伝える社伝が残されている。後世には学問・知恵に秀でた人物として神格化され、学業成就や知恵、文化・学芸の守護などの神徳が説かれている。
エピソード
霊亀2年(716)、22歳の吉備真備は遣唐留学生に選ばれた。翌年出発した遣唐使には阿倍仲麻呂や僧玄昉らも加わっていた。真備は唐に約18年間滞在し、経書・歴史・礼制・音楽・天文・兵学などを幅広く学んだとされる。天平7年(735)に帰国すると、多数の書物や器物を朝廷へ献上した。真備がもたらした知識は、単なる書物の紹介にとどまらず、律令国家の儀礼、教育、暦、軍事などに活用できる実務的な学問であった。
真備は聖武天皇や光明皇后の信任を受け、皇女の阿倍内親王、のちの孝謙天皇の教育にも関わった。天平18年(746)には下道朝臣から吉備朝臣へ改姓している。一方、真備や玄昉の登用に反発した藤原広嗣は、天平12年(740)に両名の排除を求めて反乱を起こした。真備の学識は朝廷に必要とされたが、その急速な昇進は貴族社会の対立も招いたのである。遣唐留学は真備の栄達の出発点であると同時に、政治的波乱の原因ともなった。
出典・参考:『続日本紀』、倉敷市「吉備真備」、奈良国立博物館「大遣唐使展」
天平勝宝2年(750)、吉備真備は筑前守となって九州へ赴いた。翌年には遣唐副使に任命され、二度目の唐行に出発する。この遣唐使では大使・藤原清河らとともに長安へ入り、玄宗皇帝に拝謁した。帰国時には唐で長く暮らしていた阿倍仲麻呂も日本を目指したが、船団は暴風によって離散した。真備の乗った第二船は屋久島を経て帰国できた一方、仲麻呂の第一船は安南方面へ漂着し、帰国を果たせなかった。
真備の船には、日本への渡航を繰り返し試みていた唐僧・鑑真も乗っていた。鑑真の来日は、弟子たちや遣唐使関係者を含む多くの人々の協力によって実現したものであり、真備一人が「連れ帰った」と表現するのは正確でない。しかし、真備が副使として乗る遣唐使船によって鑑真が日本へ到着したことは、仏教史上きわめて大きな出来事であった。若い留学生として唐文化を学んだ真備は、数十年後には国家使節を率いる立場で再び海を渡り、唐と日本を結ぶ役割を担ったのである。
出典・参考:『続日本紀』、『唐大和上東征伝』、倉敷市「吉備真備」
天平宝字8年(764)、藤原仲麻呂こと恵美押勝が軍を動かし、孝謙上皇と対立した。上皇側についた吉備真備はすでに70歳であったが、中衛大将として軍事上の献策を行った。朝廷側は仲麻呂が近江方面へ進む経路を予測し、先回りして要地を押さえた。仲麻呂は琵琶湖西岸へ追い詰められ、最後は敗死した。唐で兵学を学んだという真備の経歴と乱の鎮圧が結びつき、老学者が知略で反乱軍を破ったという印象的な物語が生まれた。
乱後、真備は急速に昇進し、天平神護2年(766)には右大臣となった。地方豪族の出身で、学者として朝廷に登用された人物が大臣に達するのは異例である。神護景雲3年(769)に官を退き、宝亀6年(775)に没した。真備は学問だけでなく政治・外交・軍事に能力を発揮した人物であり、後世には学業成就や知恵を象徴する存在として祀られた。もっとも、各地の神社に残る真備祭祀には、史実上の活動だけでなく、地域の伝承や後代の顕彰も重なっている。
出典・参考:『続日本紀』、倉敷市「吉備真備」、奈良県観光公式サイト「吉備真備」
平安時代末期以降、吉備真備の唐留学は奇想に満ちた物語へ変化した。『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』では、唐人が真備の才能を恐れ、難題を課して命を奪おうとする。真備は楼に閉じ込められ、囲碁の勝負や難解な「野馬台詩」の解読を命じられるが、鬼となった阿倍仲麻呂の助けを得て危機を切り抜ける。仲麻呂が真備より先に唐で死んで鬼になっていたという設定は史実と合わないが、異国で活躍する知者の物語として大いに親しまれた。
絵巻では、真備が囲碁の石を飲み込んで勝負をごまかし、術を用いて空中を飛ぶといった超人的な姿まで描かれる。史実の真備は遣唐留学生・政治家であるが、説話世界では陰陽道や呪術にも通じた万能の賢者となった。この伝説的な像が、真備を学問・知恵・方除けの人物として祀る信仰を後押ししたと考えられる。史実と伝説を区別する必要はあるものの、伝説の広がり自体が、真備の学識が後世にどれほど強い印象を与えたかを示している。
出典・参考:『江談抄』、「吉備大臣入唐絵巻」、奈良国立博物館「大遣唐使展」
ご神徳
ご神徳は不明です。
祀られている主な神社
上御霊神社
(京都府上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495)
賀露神社
(鳥取県鳥取市賀露町北1丁目21−8)
御靈神社
(群馬県前橋市粕川町女渕1174番地1)
御霊神社
(埼玉県神川町大字中新里字羽場48)
御霊神社
(埼玉県羽生市上岩瀬632)
