大物主神
おおものぬしのかみ
- 神話・伝説
- 男神・男性

国立公文書館(大日本国開闢由来記 CC0)
祭神ランキング27位
大物主神とは?
大物主神は記紀神話などに登場する男神である。古事記では御諸山上坐神、美和之大物主神、日本書紀では大己貴神の幸魂・奇魂とされるほか、三輪明神、倭大物主櫛甕魂命などの名でも知られる。奈良県の三輪山を神体山とする大神神社の祭神であり、三輪氏の祖神としても信仰されてきた。
古事記には、大物主神と大国主神の国造りに関する神話が記されている。スクナビコナが常世国へ去った後、一人で国造りを進めることに悩んでいた大国主神の前に、海を照らしながら神が現れた。神は自分を倭の青垣の東にある山の上に祀るよう求め、その望みに従って祀られた神が御諸山の神である。御諸山は現在の奈良県三輪山とされ、大神神社では本殿を設けず、三輪山そのものを神体山として大物主神を祀っている。
日本書紀では、大己貴神の前に現れた神が自らを大己貴神の幸魂・奇魂であると明かし、大和国の三諸山に住みたいと求めたとされる。このため大物主神は大国主神と非常に深い関係を持つ神であるが、古事記と日本書紀では両神の関係の描かれ方に違いがある。
大物主神は人間の女性と結ばれる神婚譚も多く持つ。古事記では活玉依毘売との間に生まれた子孫が意富多多泥古へとつながり、三輪氏などの祖となった。また、丹塗矢に姿を変えて勢夜陀多良比売と結ばれ、その娘である伊須気余理比売は神武天皇の后となった。このため古事記の系譜では大物主神は神武天皇の岳父、綏靖天皇の外祖父にあたる。一方、日本書紀では神武天皇の后・媛蹈鞴五十鈴媛命を事代主神の娘としており、記紀で系譜に違いがある。また日本書紀の一書では、高皇産霊尊の娘である三穂津姫を大物主神の妻としている。
大物主神には、人々に恵みを与える一方で、祀り方によっては災いをもたらす祟り神としての性格もある。崇神天皇の御代に疫病が流行すると、大物主神は天皇の夢に現れ、自分の子孫である意富多多泥古に祀らせるよう告げた。天皇がそのとおりに大物主神を祀らせると疫病は治まり、国は平安になったと伝えられている。こうした神話から、大物主神は疫病をもたらすほどの強大な力を持つ一方、正しく祀ることで災いを鎮め、国の平安や豊穣をもたらす神として信仰されてきた。
後世には金毘羅信仰とも結びつき、香川県琴平町の金刀比羅宮では大物主神が主祭神として祀られている。金毘羅信仰が全国へ広がったことで、大物主神は三輪神社や美和神社だけでなく、全国の金刀比羅神社、琴平神社、金比羅神社などでも広く祀られるようになった。
こうした神話や信仰から、大物主神のご利益は病気平癒、疫病除け、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などとされる。
大物主神を祀る代表的な神社には大神神社(奈良県桜井市)、金刀比羅宮(香川県琴平町)などがある。
エピソード
大物主神は、大国主神の国造りを完成へ導き、三輪山に鎮まった神である。『古事記』では、大国主神が少名毘古那神とともに国造りを進めていたが、少名毘古那神が常世国《とこよのくに》へ去ったため、残された大国主神は一人で国を造ることはできないと悩んだ。
そのとき、海を照らしながら近づいてくる神が現れた。神は大国主神に、自分をよく祀るならば国造りに協力すると告げ、倭の青垣の東にある山の上に祀るよう求めた。大国主神がその望みに従って祀った神が、御諸山《みもろやま》の上に鎮まる神である。御諸山は現在の奈良県桜井市にある三輪山とされ、この神は大物主神と同一の神として理解されている。
『日本書紀』では、大己貴神が国造りの協力者を失って嘆いていると、海を照らして神が現れた。神は自らを大己貴神の幸魂《さきみたま》・奇魂《くしみたま》であると明かし、日本国の三諸山に住みたいと望んだ。ここでは大物主神は、大己貴神とは別に現れながら、その御魂でもあるという姿で描かれている。
大神神社では大物主大神を主祭神とし、三輪山そのものを御神体として祀っている。このため本殿を設けず、拝殿から三輪山へ祈りを捧げる祭祀の形が現在まで受け継がれている。大物主神が三輪山に祀られた神話は、大神神社の祭祀と直接結びつく重要な伝承である。
出典・参考:古事記、日本書紀、大神神社
大物主神は、祟りによって疫病をもたらす一方、正しく祀られることで国を鎮める神としても描かれている。『古事記』によれば、崇神天皇の時代に疫病が広がり、多くの民が命を失った。天皇が神意を求めると、大物主神が夢に現れ、自分の御心によって疫病が起きていると告げた。
大物主神は、意富多々泥古《おおたたねこ》に自分を祀らせれば、祟りは起こらず、国は平穏になると教えた。天皇が意富多々泥古を探し出して祭主とし、御諸山で大物主神を祀らせると、疫病は収まり、国は安らかになったという。
『日本書紀』でも、崇神天皇の時代に疫病が流行し、国が乱れたと伝える。大物主神は倭迹迹日百襲姫命《やまとととひももそひめのみこと》に神懸かりし、自分を敬い祀れば国は平穏になると告げた。しかし、最初の祭祀では効果が現れなかったため、天皇の夢に再び現れ、自分の子である大田田根子に祀らせるよう命じた。大田田根子を祭主とすると疫病は収まり、五穀も実ったと記されている。
『古事記』では意富多々泥古を大物主神の子孫とし、『日本書紀』では大物主大神の子とするなど、両書の系譜には違いがある。しかし、いずれも大物主神と血縁を持つ人物が祭祀を担うことで災いが鎮まった点は共通する。大物主神は単なる疫病の神ではなく、ふさわしい祭祀を求め、国の秩序と豊穣を回復させる力を持つ神として語られているのである。
出典・参考:古事記、日本書紀、大神神社
『古事記』には、大物主神の子孫である意富多々泥古の出自を明らかにする三輪山伝承がある。陶津耳命《すえつみみのみこと》の娘である活玉依毘売《いくたまよりびめ》のもとへ、容姿の美しい男が夜ごと通うようになった。やがて活玉依毘売は身ごもったが、家族は男の正体を知らなかった。
両親は男の素性を確かめるため、赤土を床にまき、麻糸を通した針を男の衣の裾に刺すよう娘に教えた。翌朝、糸をたどると戸の鉤穴を抜け、三輪山にある神の社まで続いていた。これにより、娘のもとへ通っていた男が三輪山の神であることが分かった。
糸巻きには麻糸が三勾《みわ》だけ残っていたため、その土地を美和と呼ぶようになったと『古事記』は伝える。この物語では大物主神の姿は明記されていないが、鉤穴を通り抜けたという描写から、蛇のような姿を暗示しているとも解釈されている。
活玉依毘売と大物主神の間に生まれた子の子孫が意富多々泥古である。疫病を鎮める祭祀で意富多々泥古が選ばれたのは、三輪山の神につながる血統を持つ人物だったためである。この伝承は、大物主神の正体を明かす物語であると同時に、意富多々泥古が大物主神を祀る資格を持つことを示す始祖伝承でもある。
出典・参考:古事記、國學院大學「神名データベース」
『日本書紀』には、大物主神と倭迹迹日百襲姫命の神婚伝承が記されている。倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となったが、神が訪れるのは夜だけであった。そのため、姫は朝になっても夫の姿を見ることができなかった。
姫が姿を見たいと願うと、大物主神は翌朝、櫛笥《くしげ》の中に入っているので、自分の姿を見ても驚かないようにと告げた。姫が夜明けを待って櫛笥を見ると、中には衣紐ほどの小さな蛇がいた。驚いた姫が声を上げると、大物主神は人の姿となり、約束を破って自分に恥をかかせたと告げ、空を昇って御諸山へ帰っていった。
姫は空を仰いで深く悔い、座り込んだ際に箸で陰部を突いて亡くなった。姫は大市《おおいち》に葬られ、その墓は昼には人が造り、夜には神が造ったと伝えられる。この墓が奈良県桜井市にある箸墓古墳の名の由来とされている。
この伝承では、大物主神は普段は人の姿で女性のもとへ通いながら、本来の姿を小蛇として現す神である。三輪山の神と蛇を結びつける性格が明確に描かれており、大物主神が蛇神とされる重要な根拠の一つとなっている。
出典・参考:日本書紀
『古事記』では、大物主神は初代神武天皇の皇后につながる神として登場する。三嶋湟咋《みしまのみぞくい》の娘に、勢夜陀多良比売《せやだたらひめ》という美しい女性がいた。大物主神はその女性を気に入り、丹塗矢《にぬりや》に姿を変えた。
勢夜陀多良比売が用を足すため溝のそばへ来ると、大物主神が変じた丹塗矢が上流から流れてきて、女性の陰部を突いた。驚いた勢夜陀多良比売が矢を持ち帰って床に置くと、矢は美しい男の姿となった。二神は結ばれ、富登多多良伊須須岐比売命《ほとたたらいすすきひめのみこと》が生まれたという。
娘は、自らの名に含まれる「富登」を嫌い、のちに比売多多良伊須気余理比売《ひめたたらいすけよりひめ》と名乗った。この女神は神武天皇の皇后となり、のちの綏靖天皇を生んだと伝えられる。大物主神は皇后の父にあたり、その血統は初期の皇統へつながることになる。
この物語の大物主神は、丹塗矢に姿を変えて人間の女性と結ばれる神である。『古事記』には大物主神が蛇に変じたとは記されていないが、細長い物に姿を変えて女性のもとへ現れる点は、活玉依毘売の伝承や『日本書紀』の小蛇の物語にも通じる。大物主神が人間の女性と結ばれ、重要な氏族や皇統につながる子孫を生む神であったことを示す伝承である。
出典・参考:古事記
大物主神は三輪山の神として知られる一方、金刀比羅宮の主祭神として、全国に広がった金毘羅信仰の中心にも位置する。香川県琴平町の象頭山《ぞうずさん》に鎮座する金刀比羅宮では、大物主神と崇徳天皇を御本宮の祭神として祀っている。
金刀比羅宮の由緒によれば、初めは大物主神を祀る琴平神社と称した。中世には本地垂迹説の影響を受けて金毘羅大権現と呼ばれるようになり、永万元年(1165)には崇徳天皇が相殿に祀られた。神道の神である大物主神への信仰に、神仏習合による金毘羅大権現信仰が重なったのである。
近世になると、金毘羅大権現は航海者や船乗りから海上守護の神として篤く信仰された。全国的な航路の発達とともに各地へ勧請され、金毘羅講も広がった。江戸時代には伊勢参りと並んで金毘羅参りが庶民の憧れとなり、本人に代わって犬に参拝を託す「こんぴら狗」の風習も生まれた。
明治元年(1868)の神仏分離によって金毘羅大権現は琴平神社へ戻り、同年に金刀比羅宮と改称した。現在も大物主神は、海上守護をはじめ、農業、殖産、医薬、商売などに関わる神として祀られている。全国の金刀比羅神社、琴平神社、金比羅神社へ広がる金毘羅系の信仰は、大物主神が三輪山の神にとどまらず、海上安全や生活全般を守る神として受け入れられてきたことを示している。
出典・参考:金刀比羅宮
出典文献
古事記
日本書紀
先代旧事本紀
古語拾遺
新撰姓氏録
延喜式
神格
ご神徳
同一とされる神様
関連する神様
祀られている主な神社
金刀比羅宮
(香川県琴平町892-1)
大神神社
(奈良県桜井市三輪1422)
大杉神社
(茨城県稲敷市阿波958番地)
安井金比羅宮
(京都府東山区東大路松原上ル下弁天町70)
飛鳥坐神社
(奈良県明日香村飛鳥708)
