有名度
前頭山崎忌部神社
いむべじんじゃ
徳島県吉野川市山川町字忌部山14
徳島県吉野川市山川町字忌部山14

岩佐 栄三 (wikipedia CC0)
かんたんご利益
御祭神
主祭神
天日鷲命 あめのひわしのみこと
后神言筥女命 みさきがみいいらめのみこと
天太玉命 あめのふとだまのみこと
后神比理能賣命 みさきがみひりのめのみこと
津咋見命 つくいみのみこと
長白羽命 ながしらはのみこと
由布洲主命 ゆふつぬしのみこと
衣織比女命 いおりひめのみこと
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(8柱)」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
山崎忌部神社は徳島県吉野川市に鎮座する神社。御祭神は天日鷲命、后神言筥女命、天太玉命、后神比理能賣命、津咋見命、長白羽命、由布洲主命、衣織比女命の8柱をまつる。
社格は名神大社(論社)であり、旧村社。
社伝では、神武天皇2年2月25日、阿波忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったことを創祀として伝える。社地はもともと後方の黒岩と呼ばれる山腹にあり、古くから忌部氏との関わりが伝えられてきた。『古語拾遺』には、天太玉命の孫神である天富命が、穀や麻を植える土地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国へ至ったことが記されている。また、大嘗祭では阿波忌部氏が木綿や麻布を朝廷へ貢納したと伝わる。
大同元年(806年)には封戸20戸が充てられた。文治元年(1185年)には河野通信が長光の太刀を奉納したとされる。屋島の戦いの際には、源義経や那須与一が太刀や弓矢を奉納したとの伝承も残る。文治3年(1187年)には、田口成良が源頼朝の命を受け、板東・板西・阿波・三好の4郡から田畑1000町を御供料として寄進したと伝えられている。
応永年間(1394年-1428年)には地震によって旧社地が崩落し、現在地にあった王子権現の傍らへ小祠として祀られた。永禄3年(1560年)には細川讃岐守が御供料田畑を安堵し、その後は三好長治もこれを継承したが、のちに長宗我部元親によって廃止された。さらに兵乱による荒廃も重なり、藩政期には社地の所在が不明になったとされる。
享保12年(1727年)には、種穂神社の神職であった早雲民部が当社神職の村雲勝太夫を放逐したと伝わる。元文年間(1736年-1741年)には種穂神社に忌部神が併祭された。寛政13年(1801年)には、旧山崎村の村民による請願によって早雲式部が罷免され、村雲勝太夫の孫娘に迎えられた養子が神職を継いだとされる。
明治3年(1870年)に村社となり、明治4年(1871年)には所在地不明のまま式内忌部神社が国幣中社に列した。明治5年(1872年)には小杉榲邨の考証により、山崎忌部神社が国幣中社へ昇格した。しかし明治14年(1881年)、五所神社が式内忌部神社へ変更されたことで、山崎忌部神社は再び村社へ戻った。
現在の本殿は切妻造平入の板葺屋根で、棟には千木と鰹木を置く。棟札には享保7年(1722年)の造替と記されている。例祭は毎年10月19日に行われる。境内には麁服織殿跡が残されており、平成2年(1990年)と令和元年(2019年)の大嘗祭では、徳島で栽培された麻を用いて境内で麁服が織られ、朝廷へ調進された。
社格は名神大社(論社)であり、旧村社。
社伝では、神武天皇2年2月25日、阿波忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったことを創祀として伝える。社地はもともと後方の黒岩と呼ばれる山腹にあり、古くから忌部氏との関わりが伝えられてきた。『古語拾遺』には、天太玉命の孫神である天富命が、穀や麻を植える土地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国へ至ったことが記されている。また、大嘗祭では阿波忌部氏が木綿や麻布を朝廷へ貢納したと伝わる。
大同元年(806年)には封戸20戸が充てられた。文治元年(1185年)には河野通信が長光の太刀を奉納したとされる。屋島の戦いの際には、源義経や那須与一が太刀や弓矢を奉納したとの伝承も残る。文治3年(1187年)には、田口成良が源頼朝の命を受け、板東・板西・阿波・三好の4郡から田畑1000町を御供料として寄進したと伝えられている。
応永年間(1394年-1428年)には地震によって旧社地が崩落し、現在地にあった王子権現の傍らへ小祠として祀られた。永禄3年(1560年)には細川讃岐守が御供料田畑を安堵し、その後は三好長治もこれを継承したが、のちに長宗我部元親によって廃止された。さらに兵乱による荒廃も重なり、藩政期には社地の所在が不明になったとされる。
享保12年(1727年)には、種穂神社の神職であった早雲民部が当社神職の村雲勝太夫を放逐したと伝わる。元文年間(1736年-1741年)には種穂神社に忌部神が併祭された。寛政13年(1801年)には、旧山崎村の村民による請願によって早雲式部が罷免され、村雲勝太夫の孫娘に迎えられた養子が神職を継いだとされる。
明治3年(1870年)に村社となり、明治4年(1871年)には所在地不明のまま式内忌部神社が国幣中社に列した。明治5年(1872年)には小杉榲邨の考証により、山崎忌部神社が国幣中社へ昇格した。しかし明治14年(1881年)、五所神社が式内忌部神社へ変更されたことで、山崎忌部神社は再び村社へ戻った。
現在の本殿は切妻造平入の板葺屋根で、棟には千木と鰹木を置く。棟札には享保7年(1722年)の造替と記されている。例祭は毎年10月19日に行われる。境内には麁服織殿跡が残されており、平成2年(1990年)と令和元年(2019年)の大嘗祭では、徳島で栽培された麻を用いて境内で麁服が織られ、朝廷へ調進された。
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神社詳細
摂末社・境内社
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例祭
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文化財
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建築
本殿 切妻造
神紋
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出典
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B7%9D%E5%B8%82)
徳島県神社庁
http://awa-jinjacho.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B7%9D%E5%B8%82)
徳島県神社庁
http://awa-jinjacho.jp/
