有名度
関脇石切劔箭神社
いしきりつるぎやじんじゃ
大阪府東大阪市東石切町1-1-1
上之社
更新日:2026年9月9日
石切劔箭神社の歴史を受け継ぐ上之社
御本社から生駒山の方向へ約20分歩いた場所に、石切劔箭神社の上之社が鎮座しています。上之社の御祭神は、饒速日尊荒御魂(にぎはやひのみことのあらみたま)と可美真手命荒御魂(うましまでのみことのあらみたま)です。
石切劔箭神社の社伝では、神武天皇紀元2年、生駒山山頂に近い宮山に饒速日尊を奉斎したことを創祀としています。その後、崇神天皇の御代に可美真手命を祀る下之社、現在の御本社が創建され、宮山と下之社の二座で祭祀が続けられました。

明治40年(1907)には上之社が下之社へ合祀され、跡地には石碑だけが残されました。しかし、その後も上之社を参拝する人は絶えず、多くの崇敬者から寄せられた浄財によって昭和47年(1972)に再興されました。
一度は社殿を失いながら、参拝者の信仰によって再び社殿が建てられた歴史を持つお社です。
長い石段の先にある上之社の社殿
鳥居をくぐると、上之社の社殿へと続く長い石段があります。御本社とは境内の雰囲気も大きく異なり、生駒山の麓を登って参拝する上之社らしい景観です。
拝殿は平入の入母屋造で、正面に向拝を設け、屋根は銅板葺です。社殿前に置かれている四角い石は神輿台です。

スポンサーリンク
御本社の旧本殿を受け継ぐ上之社本殿
上之社で特に注目したいのが本殿です。現在の上之社本殿は、もともと御本社の本殿として使われていた社殿です。
昭和7年(1932)、御本社の新しい本殿への御遷座に伴って旧本殿は解体されましたが、部材は保存されました。そして昭和47年(1972)に上之社が再興された際、本殿として再建されています。
つまり上之社では、現在の御本社本殿より以前に石切劔箭大神を祀っていた社殿を見ることができます。
本殿は隅木入春日造、銅板葺で、社殿の周囲がガラスで覆われているのも特徴です。ガラス越しに本殿の姿を見ることができ、御本社とは異なる独特の姿となっています。

石切劔箭神社と長髄彦を結びつける説
石切劔箭神社には、長髄彦(ながすねひこ)と神社を結びつけて考える説もあります。長髄彦は『日本書紀』の神武東征に登場する人物で、神武天皇が大和へ入ろうとした際にこれを迎え撃った人物です。
長髄彦と石切劔箭神社の御祭神である饒速日尊には、『日本書紀』にも接点があります。饒速日尊は長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻とし、長髄彦は饒速日尊を君主として仕えていました。
進藤治氏は著書『「長髄彦」の実像』のなかで、石切劔箭神社と長髄彦の関係について独自の説を提示しています。
その一つが「石切」という名称に関するものです。「石切」を「i-si-kir・i」と分けてアイヌ語から解釈し、長髄彦と結びつけるという説です。
こうした説から、石切劔箭神社と長髄彦には、公式の由緒とは異なる関係があるのではないかと考える見方もあります。
ただし、これは石切劔箭神社の公式見解ではありません。上之社の御祭神は、公式には饒速日尊荒御魂と可美真手命荒御魂です。長髄彦との関係については、一つの説として捉える必要があります。

スポンサーリンク
願いが叶った感謝を伝える御礼池
拝殿に向かって左手奥の坂を上っていくと「御礼池」があります。御本社の神霊池では、願い事を書いた紙を陶器製の「祈亀」の腹部に納めて奉納します。そして、その願いが成就した際に奉納するのが「御礼亀」です。
御礼亀の腹部には願いが叶ったことへの感謝を書いた紙を納め、上之社の御礼池へ奉納します。

願い事をして終わるのではなく、願いが成就した後には再び参拝して感謝を伝える。御本社の神霊池と上之社の御礼池を通して、祈願から御礼までがつながっているのが石切劔箭神社ならではの特徴です。
御礼亀は上之社の社務所で受けることができます。

上之社の奥にある石切の御滝
御礼池のさらに奥へ進むと「石切の御滝」があります。生駒山の斜面に設けられた滝場で、滝行を行う場所となっています。滝行を希望する場合は、上之社の社務所へ申し出る必要があります。


この記事を1人の方がいいねといっています
スポンサーリンク
石切劔箭神社の人気記事
-
石切神社のお百度参りのやり方・回数・所要時間を実際に100回参拝して解説この記事を4人が評価
-
八代龍王・石切登美霊社・婦道神社この記事を1人が評価
-
祈り亀この記事を1人が評価
