神武天皇
じんむてんのう
- 神話・伝説
- 男神・男性
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神武天皇とは?
神武天皇は記紀神話に登場する男神で、日本の初代天皇である。日本書紀では神日本磐余彦天皇《かむやまといわれびこのすめらみこと》、神日本磐余彦火火出見天皇などと記され、古事記では神倭伊波礼毘古命《かむやまといわれびこのみこと》、若御毛沼命、豊御毛沼命などと呼ばれる。神武は後世に贈られた漢風諡号である。
ウガヤフキアエズとタマヨリヒメの末子で、天孫ニニギの曾孫にあたる。兄にはヒコイツセ、イナヒ、ミケイリノがいる。父方からはアマテラスにつながる天孫の系譜、祖母トヨタマヒメと母タマヨリヒメを通じて海神ワタツミの系譜を受け継いでいる。
日本書紀によれば、神武天皇は45歳のとき、天下を治めるのにふさわしい地を求め、皇兄や皇子らとともに日向を出発した。筑紫から瀬戸内海を東へ進み、難波から大和へ入ろうとしたが、孔舎衛坂《くさえのさか》で長髄彦と戦って敗れ、兄のヒコイツセも矢傷を負って後に亡くなった。神武天皇は、自らが日の神の子孫でありながら太陽に向かって戦ったことが敗因であると考え、進路を変えて紀伊半島を回り、太陽を背にして大和へ攻め入ることにした。
熊野へ入ると一行は神の毒気によって倒れたが、高倉下が霊夢によって授かった神剣・布都御魂を献上すると再び目を覚ました。その後、タカミムスビの命によって遣わされた八咫烏の導きを受けて熊野の険しい山々を越え、吉野を経て大和へ進んだ。道中では兄猾・弟猾、八十梟帥などの勢力を従え、再び長髄彦と対峙する。長髄彦が仕えていたニギハヤヒも神武天皇が天津神の正統な子孫であることを認め、長髄彦を討って帰順したと記紀は伝えている。
大和を平定した神武天皇は畝傍山の東南に橿原宮を造営し、日本書紀では辛酉年正月に初代天皇として即位したとされる。日本書紀では橿原宮、古事記では畝火の白檮原宮《うねびのかしはらのみや》と記され、万葉集にも可之波良能宇禰備乃宮の名が見える。現在の橿原神宮は、この橿原宮があったと伝えられる畝傍山東南の地に鎮座している。
皇后となったヒメタタライスズヒメについては記紀で系譜が異なり、古事記では大物主神の娘、日本書紀では事代主神の娘とされる。二柱の間には神八井耳命、神沼河耳命らが生まれ、神沼河耳命が後の第2代綏靖天皇となった。
神武天皇の東征は、日向を出発して数々の困難や戦いを乗り越え、大和に王権を開いた建国神話として記紀に描かれている。一方、その東征の年代や出来事を確認できる同時代史料はなく、記紀に記された神話・伝承として伝えられている。後世には建国の祖として崇敬され、困難を克服して目的を成し遂げた東征の物語から、国家安泰、開運招福、艱難克服、必勝、延命長寿などのご利益があるとされる。
神武天皇は橿原神宮(奈良県橿原市)、宮崎神宮(宮崎県宮崎市)、霧島神宮(鹿児島県霧島市)、狭野神社(宮崎県西諸県郡高原町)などで祀られている。
エピソード
『日本書紀』によると、神武天皇はウガヤフキアエズとタマヨリヒメの第四子として生まれた。生まれながらに聡明で意志が強く、15歳で皇太子となり、45歳のときに皇兄や皇子たちを集めて東へ向かう計画を語ったとされる。
神武天皇は、天孫が降臨して以来、西方に住み続けてきたが、遠く離れた地域ではまだ争いが続いていると考えた。そして塩土老翁《しおつちのおじ》から、東方に青々と山々に囲まれた美しい土地があり、そこには天磐船《あめのいわふね》に乗って降った者がいると聞き、天下を治める中心地にふさわしいと判断した。この天磐船で降った者はニギハヤヒを指すとされる。
一行は日向国(現在の宮崎県)の高千穂宮を出発し、豊国の宇佐、筑紫国の岡水門、安芸国の埃宮、吉備国の高島宮などを経て東へ進んだ。『古事記』にも筑紫、安芸、吉備を通る経路が記されているが、滞在した宮の名称や年数には『日本書紀』との違いがある。
この東への旅は一般に神武東征または神武東遷と呼ばれる。神武天皇は最初から大和を支配していたのではなく、各地の人々の助力を得ながら瀬戸内海を進み、幾度も進路を変えて大和へ入った。建国の神としての神格は、この長い遠征と橿原宮での即位を伝える物語から生まれたものである。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、橿原神宮公式サイト「神武天皇御一代記御絵巻」
瀬戸内海を進んだ神武天皇の一行は、浪速国の白肩津《しらかたのつ》に上陸し、生駒山を越えて大和へ入ろうとした。しかし、そこで大和を支配していた長髄彦《ながすねひこ》の軍勢と戦いになった。この戦いで、神武天皇の兄ヒコイツセが矢を受けて負傷した。
ヒコイツセは、自分たちは日の神の子孫であるのに、太陽が昇る東へ向かって戦ったため、日の神の威光に逆らうことになったと考えた。そしていったん退き、南から回って太陽を背にして戦うべきだと進言した。一行は生駒山越えを断念し、大阪湾を南へ進んで紀伊半島へ向かった。
負傷したヒコイツセは傷が悪化し、紀伊国(現在の和歌山県)の男之水門《おのみなと》で、賊の矢によって命を落とすことを無念に思いながら亡くなったと『古事記』は伝える。『日本書紀』では、紀伊国の竈山《かまやま》で亡くなり、同地に葬られたと記される。現在、和歌山市の竈山神社ではヒコイツセを主祭神として祀り、その墓とされる竈山墓が隣接している。
兄の死を受けた神武天皇は、同じ道を力任せに進まず、紀伊半島を回って熊野から大和を目指した。この転進は、太陽神の子孫として太陽を背負って進むという神話的な意味を持つ。同時に、敗北を受け入れて進路を改める判断が、神武天皇の艱難克服の神徳に結びついている。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、和歌山県神社庁「竈山神社」
紀伊半島を回った神武天皇の一行は熊野へ上陸した。『古事記』では、大きな熊が姿を現してすぐに消えると、神武天皇をはじめ一行が毒気に当たったように倒れたと伝える。そのとき熊野の高倉下が一振りの太刀を持ってくると、神武天皇は目を覚まし、荒ぶる神々も倒れた。
高倉下によると、夢の中でアマテラスとタカミムスビが布都御魂を地上へ降ろすよう命じた。剣は高倉下の倉の屋根に穴を開けて落ちると告げられ、目覚めて倉を調べると、夢のとおり太刀が置かれていたという。『日本書紀』ではタケミカヅチが自ら降る代わりに、かつて国土平定に用いた剣を降ろしたと記される。
神武天皇は剣の力で危機を脱したが、熊野から大和へ向かう山道は険しく、進む方向を見失った。そこで高天原から遣わされた八咫烏が現れ、一行を吉野から宇陀へ導いた。八咫烏は三本足の烏として描かれることが多いが、記紀本文には足が三本であるとの記述はない。
布都御魂は石上神宮の神宝として信仰され、八咫烏は目的地へ導く神使として知られるようになった。神武天皇の東征は本人の武力だけで成し遂げられたのではなく、天つ神の助け、土地の人々、神使の導きを受けて進んだ物語なのである。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、國學院大學 古典文化学事業「神倭伊波礼毘古命」「八咫烏」
熊野と吉野を越えて大和へ入った神武天皇は、宇陀や磯城の豪族を従え、再び長髄彦と対峙した。『日本書紀』では激しい戦いが続いても勝敗が決まらなかったとき、金色に輝く鵄《とび》が飛来し、神武天皇の弓の先に止まったと伝える。
鵄は稲妻のような光を放ち、その輝きに長髄彦の軍勢は目がくらみ、戦うことができなくなった。神武天皇はこの神助によって優勢となった。この金の鵄は金鵄《きんし》と呼ばれ、後世には神武天皇を象徴する存在の一つとなった。なお、金鵄の説話は『日本書紀』に記され、『古事記』には見られない。
長髄彦は、天つ神の子であるニギハヤヒがすでに天磐船に乗って大和へ降り、自分の妹を妻としていると述べた。そして、神武天皇も天つ神の子孫だというのなら、その証拠を示すよう求めた。双方が天から授けられた矢や靫《ゆぎ》を示すと、それらはよく似ていたとされる。
『日本書紀』では、ニギハヤヒは神武天皇が天つ神の正統な子孫であることを認め、従おうとしない長髄彦を殺して帰順した。『古事記』では、邇芸速日命が天つ神の御子であることを知って服従したと記すが、長髄彦を殺したとは明記していない。二つの記録には違いがあるものの、神武天皇が武力だけでなく、天つ神の系譜を認められることで大和の支配者となった点は共通している。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、橿原神宮公式サイト「神武天皇御一代記御絵巻」
大和を平定した神武天皇は、皇后となる女性を求め、ヒメタタライスズヒメを選んだ。ところが、その父神について『古事記』と『日本書紀』は異なる系譜を伝えている。
『古事記』では、三輪山の大物主神が丹塗矢《にぬりや》に姿を変え、勢夜陀多良比売《せやだたらひめ》が用を足していた溝を流れ下った。矢が女性の陰部を突いたため、女性がその矢を床の近くに置くと、大物主神は美しい男となり、二柱の間にヒメタタライスズヒメが生まれたとされる。この出生譚により、神武天皇は大和の有力な国つ神である大物主神の娘を皇后に迎えたことになる。
一方、『日本書紀』では、ヒメタタライスズヒメは事代主神が八尋熊鰐《やひろわに》となって玉櫛媛のもとへ通い、二柱の間に生まれた娘とされる。大物主神の娘ではない。現在の概要で大物主神の娘とだけ説明すると、『日本書紀』の系譜が抜け落ちてしまう。
神武天皇には、東征以前から日向で妻とした吾平津媛《あひらつひめ》と、その間に生まれた子がいた。それでも大和平定後にヒメタタライスズヒメを正妃とした伝承は、神武天皇の天孫系の血統と、大和の国つ神の系統が婚姻によって結びついたことを表すと考えられている。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、橿原神宮公式サイト「御祭神 系図」
大和の豪族を平定した神武天皇は、畝傍山《うねびやま》の東南に橿原宮を築いた。『古事記』では畝火之白檮原宮《うねびのかしはらのみや》で天下を治めたと記され、『日本書紀』では辛酉年正月に橿原宮で即位したと伝えられている。伝統的な紀年では紀元前660年にあたり、即位日とされた2月11日は、現在の建国記念の日につながっている。
神武天皇という名は生前の実名ではなく、奈良時代後期に贈られた漢風諡号とされる。『日本書紀』では神日本磐余彦天皇《かむやまといわれびこのすめらみこと》や始馭天下之天皇《はつくにしらすすめらみこと》、『古事記』では神倭伊波礼毘古命などと記されている。
記紀は神武天皇の在位や寿命も記しているが、その年代や東征の出来事を裏づける同時代史料は存在しない。このため歴史学では、記紀に描かれたままの人物像や年代を史実として確認することはできない。一方、神武天皇が初代天皇として語られ、建国の祖として信仰されてきたことは、日本の神話と皇室祭祀を理解するうえで重要である。
奈良県橿原市の橿原神宮は、橿原宮の伝承地に明治23年(1890)に創建され、神武天皇とヒメタタライスズヒメを祀る。宮崎県宮崎市の宮崎神宮では、神武天皇を主祭神として父母神も祀っている。神武天皇の東征と即位の伝承は、国家安泰、開運招福、艱難克服を願う信仰として現在まで受け継がれている。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、橿原神宮公式サイト「橿原神宮について」、宮崎神宮公式サイト
出典文献
古事記
日本書紀
先代旧事本紀
新撰姓氏録
続日本後紀
山城国風土記
伊勢国風土記
神格
ご神徳
別称・異称
かんやまといわれびこのみこと
古事記
神倭伊波礼毘古天皇かんやまといわれびこのすめらみこと
古事記
若御毛沼命わかみけぬのみこと
古事記
豊御毛沼命とよみけぬのみこと
古事記
神日本磐余彦火火出見天皇かんやまといわれひこほほでみのすめらみこと
日本書紀
始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと
日本書紀
彦火火出見ひこほほでみ
日本書紀
御肇国天皇はつくにしらすすめらみこと
日本書紀
磐余彦火火出見尊いわれひこのほほでみのみこと
日本書紀
神日本磐余彦尊かんやまといわれひこのみこと
日本書紀
神日本磐余彦火火出見尊かんやまといわれひこほほでみのみこと
日本書紀
狭野尊さののみこと
日本書紀/先代旧事本紀
磐余彦尊いわれひこのみこと
日本書紀/先代旧事本紀
神日本磐余彦天皇かんやまといわれひこのすめらみこと
日本書紀/先代旧事本紀/新撰姓氏録
彦火火出見尊ひこほほでみのみこと
先代旧事本紀
神倭磐余比古天皇かんやまといわれひこのすめらみこと
山城国風土記 逸文
神倭磐余彦天皇かんやまといはれひこのすめらみこと
伊勢国風土記 逸文/続日本後紀
神倭磐余彦命かんやまといわれびこのみこと
その他
神倭磐礼彦尊かんやまといわれびこのみこと
その他
神大和伊波礼彦神かんやまといわれびこのかみ
その他
神日本磐余毘古命かんやまといわれびこのみこと
その他
神武天皇じんむてんのう
その他
祀られている主な神社
霧島神宮
(鹿児島県霧島市霧島町田口2608-5)
橿原神宮
(奈良県橿原市久米町934)
宝登山神社
(埼玉県長瀞町長瀞1828)
宮崎神宮
(宮崎県宮崎市神宮二丁目4番1号)
開成山大神宮
(福島県郡山市開成3-1-38)



