有名度
小結武雄神社
たけおじんじゃ
佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
鳥居・心字の池・手水舎
更新日:2026年9月15日
一の鳥居
一の鳥居は、武雄神社の境内から少し離れた武雄てくてく通りから入った場所に立っています。寛永18年(1641)、第22代武雄領主で武雄鍋島家3代当主の鍋島茂和によって建立されました。佐賀県周辺に多く見られる独特の形式を持つ肥前鳥居です。笠木と島木が一体となって流線形を描き、柱は三本の石材を継いで造られています。柱は上部から下部へ向かって太くなり、根元の亀腹と一体化するような力強い姿も特徴です。
高さ4.7m、笠木の長さ5.8m、柱間2.7m。柱には建立者である鍋島茂和の名や寛永18年の建立を示す銘文も刻まれており、江戸時代前期から残る武雄神社の歴史的建造物です。三の鳥居とともに「武雄神社の肥前鳥居」2基として、昭和48年(1973)2月20日に武雄市重要文化財に指定されています。
一の鳥居の横から神社入口にかけては、一般道を挟んで全長140間、約255mの流鏑馬馬場がまっすぐ延びています。鳥居から境内へ向かう参道と長い馬場が続き、現在の境内だけでは分かりにくい武雄神社の広がりを見ることができます。
Peka(CC 表示-継承 4.0 Wikipedia)二の鳥居
一の鳥居から参道をまっすぐ進み、県道330号武雄塩田線を越えると武雄神社の境内に入ります。さらに参道を進み、心字の池に架かる神橋を渡った先に立つのが二の鳥居です。寛文12年(1672)に藤原頼続によって建立されました。一の鳥居や三の鳥居とは姿が異なり、肥前鳥居と神明鳥居の特徴をあわせ持つ折衷型の鳥居となっています。境外に近い位置に立つ一の鳥居、心字の池を越えた場所にある二の鳥居、社殿前の三の鳥居と、参道を進むにつれて3基の鳥居を順番にくぐって本殿へ向かう配置になっています。
Naokijp(CC 表示-継承 4.0 Wikipedia)スポンサーリンク
三の鳥居
三の鳥居は、社殿へ向かう石段を上った先に立っています。元和3年(1617)、第21代武雄領主で武雄鍋島家2代当主の鍋島茂綱によって建立されました。一の鳥居と同じ肥前鳥居で、高さ4.6m、笠木の長さ5.1m、柱間3mです。下部へ向かって太くなる柱、三本継ぎの構造、笠木と島木が一体化した形など、肥前鳥居特有の姿を見ることができます。
現在残る3基の鳥居では最も建立年代が古く、一の鳥居より24年前に建立されました。一の鳥居とともに「武雄神社の肥前鳥居」として武雄市重要文化財に指定されており、武雄神社と歴代武雄領主との深い関わりを現在に伝えています。
Naokijp(CC 表示-継承 4.0 Wikipedia)心字の池
二の鳥居の手前には、その名の通り漢字の「心」をかたどったとされる心字の池があります。池には神橋が架けられており、橋を渡って二の鳥居、さらに社殿へと参拝する形になっています。心字の池は、武雄神社に伝わる白鷺伝説の舞台でもあります。文治元年(1185)、壇ノ浦の戦いで平家の水軍に苦戦していた源頼朝は、武雄神社へ密使を送り平家追討を祈願したと伝えられています。その翌春、心字の池から白鷺が飛び立ち、源氏を励まし守護したという伝承が残りました。
武雄神社では白鷺を神の使いであり神社の象徴としており、現在では白鷺伝説にちなむ開運招福の鳥としても親しまれています。源氏の勝利後の文治2年(1186)には、頼朝が後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を武雄神社へ遣わしたと伝えられ、この故事は例祭前夜に行われる「宵のまつり(エイトウ)」の由来にもなっています。
池の周囲には桜が植えられ、春には神橋と桜を一緒に眺めることができます。また例祭の日には、この心字の池で心身を祓い清める「清祓の儀」が行われます。
Pekachu(CC 表示-継承 4.0 Wikipedia)手水舎
武雄神社の境内には2か所の手水舎があります。一の手水舎は三の鳥居の左手にあり、社殿を参拝する前に手水を取ることができます。武雄神社では、神域へ入る前に行われていた禊を簡略化したものが手水であると案内されています。手と口を清め、参拝前に心身を整えるための場所です。
もう1か所の手水舎は、御神木である武雄の大楠へ向かう「もみじ通り」の入口付近にあります。鳥居のすぐ左手に設けられているため、大楠へ向かう前にも手水を取ることができます。社殿と大楠へ向かう参拝経路それぞれに手水舎が設けられているのが武雄神社の境内配置の特徴です。
Naokijp(CC 表示-継承 4.0 Wikipedia)この記事を0人の方がいいねといっています
スポンサーリンク
武雄神社の人気記事
-
お守り・おみくじ・絵馬・御朱印・御朱印帳この記事を0人が評価
-
塩釜神社・城山稲荷神社この記事を0人が評価
-
荒神社・下ノ宮この記事を0人が評価
