天神祭 | 大阪天満宮 - 神社ファン

有名度

大関

大阪天満宮

おおさかてんまんぐう

大阪府北区天神橋2-1-8

天神祭

更新日:2026年4月17日

日本三大祭のひとつ「天神祭」

天神祭は、京都の祇園祭、東京の神田祭と並ぶ日本三大祭のひとつです。6月下旬の吉日から7月25日までのおよそ1か月にわたり、さまざまな神事や行事が執り行われます。
祭りの中心は24日の宵宮と25日の本宮です。宵宮では、早朝に本殿にて、人々の無病息災と鉾流神事の無事を祈願する宵宮祭が斎行されます。その後、神童や供奉人ら約200名の行列が大阪天満宮の表門を出発し、旧若松町浜の斎場へ向かい、鉾流神事(ほこながししんじ)が執り行われます。なお、神童に選ばれるのは、地元の西天満小学校に通う児童です。
大阪天満宮 天神祭 鉾流神事の様子Suguri F(wikipedia CC 表示-継承 3.0)
堂島川の中ほどまで斎船で漕ぎ出したあと、「鉾流歌」の神楽歌が奏でられるなか神童が神鉾を川に流して御神意を伺います。あわせて祓物を河中に流し、氏子や市民の無病息災・市中平穏を祈願します。元々は、鉾が流れ着いた場所を御旅所と定めて祭礼をおこなっていましたが、場所が固定されてからはその役目は担っておりません。その後、御鳥船(おとりぶね)が、櫓と櫂で航行し、流された神鉾を拾い上げます。
大阪天満宮 天神祭 催太鼓催太鼓Ogiyoshisan(wikipedia CC 表示-継承 3.0)
25日の本宮では、本宮祭ののち陸渡御(りくとぎょ)と船渡御(ふなとぎょ)が行われます。陸渡御は祭りのメインイベントのひとつです。乗船場に向けておよそ4キロにわたる行列が組まれ、その規模は約3,000人にのぼると言われています。行列は三陣で構成されており、催太鼓に始まり猿田彦・采女(うねめ)・花傘・牛曳童児や猩々の山車などが連なる第一陣、御羽車と御鳳輦(ごほうれん)の第二陣、玉神輿・鳳神輿の第三陣と続きます。
大阪天満宮 天神祭 大川での船渡御663highland (wikipedia CC 表示 2.5)
続いて18時から始まる船渡御は、大川(旧淀川)を数多くの船が往来する、天神祭を象徴するイベントです。御神霊をのせた御鳳輦奉安船をはじめ、神に仕える講社の供奉船、神を出迎えるため、風流人形を穂先に飾り立てた御迎船、協賛団体や市民船などの奉拝船が続きます。
大阪天満宮 天神祭 Midori Midori (wikipedia CC 表示-継承 3.0)
さらに、どんどこ船や子供どんどこ船、落語船なども自由に航行し、大川は一夜にして祭りの舞台へと変わります。夏の夜空を彩る奉納花火は、見どころのひとつでしょう。篝火や提灯の灯りが川面に映り、そこに花火が重なる光景から「火と水の祭典」とも称されてきました。毎年、大阪のみならず全国各地から100万人を超える人々が、沿道や大川の両岸に足を運びます。
その後、渡御を終えた行列が天満宮へ帰着すると、催太鼓とともに大阪締めが行われます。獅子舞による四方清めと本殿への走り込みを経て、還御祭が斎行され祭りの幕を閉じます。

天神祭の歴史

天満宮が鎮座した2年後にあたる951年(天暦5年)、大川に神鉾を流してその漂着地に祭場を構え、禊祓い(みそぎはらい)を執り行ったのが起源とされています。そのとき地元の人々が船で神鉾を迎えに出たことが、のちの船渡御へとつながりました。
安土桃山時代には、豊臣秀吉より催太鼓を拝領しています。元禄時代に入ると、高さ約2メートルの「御迎人形」を船の穂先に飾る風習や、祭りを支える「講」の組織が生まれ、天神祭は日本三大祭と称されるほどの規模に発展しました。
大阪天満宮 天神祭 提灯
幕末の政変や二度の世界大戦により中断を余儀なくされた時期もありましたが、1949年(昭和24年)に船渡御が復活したと伝わります。その後、地盤沈下の影響で橋桁が下がり船の航行が難しくなったことから、1953年(昭和28年)より大川を上流へ遡航する現在の方式に改められました。
2020年(令和2年)には新型コロナウイルスの感染拡大を受けて神賑行事がすべて中止され、神事は神職のみで執り行われました。このとき、YouTubeで神事を解説付きでライブ配信するという新たな試みも行われています。その後は段階的に再開され、2023年(令和5年)には船渡御と奉納花火も復活し、天神祭は再びかつての賑わいを取り戻しています。

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