有名度
小結水天宮
すいてんぐう
福岡県久留米市瀬下町265番ノ1
工藤謙同先生之碑・宗像警部之像・軍艦千歳慰霊碑
更新日:2026年9月13日
工藤謙同先生之碑
山梔窩の裏手には、江戸時代後期の蘭方医・工藤謙同(くどうけんどう)を顕彰する碑が建っています。工藤謙同は1801(享和元)年、豊後国杵築の医家に生まれました。長崎へ遊学してシーボルトに西洋医学を学び、その後は江戸の蘭学者・宇田川玄真にも師事しました。
故郷へ帰る途中に久留米へ立ち寄った際、病人を治療したことをきっかけに当地での開業を請われ、そのまま久留米にとどまりました。久留米藩内で初めて蘭方医学を開いた医師とされています。
工藤謙同は、水天宮第22代宮司・眞木和泉守保臣とも親交がありました。海外情勢や西洋の学術について眞木和泉守に新しい知識を伝え、その交流は眞木和泉守が藩医学の刷新や医学館の開設を提言することにもつながったと伝えられています。
水天宮境内に工藤謙同の碑が建つ背景には、久留米に蘭方医学をもたらした功績とともに、眞木和泉守とのこうした交流がありました。

宗像警部之像
工藤謙同先生之碑の近くには、久留米の消防に大きな功績を残した宗像警部の銅像が建っています。宗像警部は大正5年(1916)に消防主任となりました。当時の久留米では火災が市民を悩ませており、宗像警部は市民への防火思想の普及に奔走するとともに、消防組そのものの大規模な改革に取り組みました。
改革では、優れた人材の確保と組織的な訓練、消防機械器具の普及・改善、消防水利の充実、消防組員の奨励・褒賞・救済という5つの目標を掲げました。訓練と規律を徹底することで消防組員の素質向上を図り、さらに水道の敷設によって、それまで課題となっていた消防水利の改善にもつなげました。
久留米の消防・防火のために尽力した宗像警部は、51歳で亡くなりました。その功績をたたえて水天宮境内に銅像が建立され、現在も「消防恩師」としてその姿が残されています。

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軍艦千歳慰霊碑
一の鳥居をくぐった右手には、航空母艦「千歳」の慰霊碑が建っています。千歳は1938(昭和13)年に水上機母艦として竣工し、太平洋戦争中に航空母艦へ改装された軍艦です。「千歳」の艦名は、水天宮のすぐそばを流れる筑後川の別名「千歳川」に由来します。
さらに千歳の艦内には水天宮が奉斎されており、水天宮と深いつながりを持つ軍艦でした。
1944(昭和19)年10月25日、千歳はフィリピンのレイテ沖海戦に参加し、ルソン島東方の海上で沈没しました。戦後、千歳とともに亡くなった人々の御霊を慰めるため、1978(昭和53)年に水天宮境内へ軍艦千歳慰霊碑が建立されました。
筑後川の旧称から艦名を受け、艦内に水天宮を祀った軍艦千歳。その慰霊碑が筑後川を望む水天宮に建てられているのは、軍艦千歳と久留米、水天宮との深い縁を現在に伝えるものです。

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