真木保臣・眞木神社 | 水天宮 - 神社ファン

有名度

小結

水天宮

すいてんぐう

福岡県久留米市瀬下町265番ノ1

真木保臣・眞木神社

更新日:2025年6月28日

水天宮には久留米の皇攘夷の志士で、22代宮司で真木和泉守保臣(まきいずみのかみやすおみ)に関連する神社や銅像などがあります。

眞木神社

一の鳥居をくぐり、太鼓橋の手前、右手に見えるのが眞木神社(まきじんじゃ)です。祭神は水天宮22代宮司・真木和泉守保臣(まきいずみのかみやすおみ)を主祭神とし、保臣とともに天王山で自刃した17志士、明治維新で殉じた門下生が相殿神としてお祀りされています。
眞木神社 拝殿
水天宮神職の家に生まれた保臣は、幼少時から勉学に励み、水戸藩に遊学に出かけます。久留米藩に戻った後、藩政改革に着手しますが、久留米藩10代藩主・有馬頼永亡きあと蟄居を命じられてしまいました。約10年の蟄居生活を経て脱藩。尊王倒幕を唱え京で尊攘活動を行います。寺田屋騒動により幽閉の身となると長州藩と接近し、さらに尊攘活動に励みます。しかし1864(元治元)年の「禁門の変(蛤御門の変)」で敗戦。立てこもった天王山で自害しました。
尊王攘夷の志士として知られる保臣は、「筑後川花火大会」のきっかけを作った人物でもあります。久留米藩2代藩主・有馬忠頼が水天宮の社地社殿を寄進した際、保臣はそれを祝し「水天宮奉納花火」を開催。それが後年、「筑後川花火大会」になったと言われています。
眞木神社 本殿

山梔窩

眞木神社の左隣にある山梔窩(くちなしのや)は、真木和泉守保臣が久留米藩から蟄居を申し付けられた際に暮らしていた家です。境内にあるのは資料を元に復元したもので、実物は筑後市水田に現存しています。水田の家は、福岡県の文化財に指定されています。
山梔窩
保臣が山梔窩で暮らした期間は9年9カ月。その間、門弟の教育に励んだことから、この家は尊皇・倒幕の策源地とも呼ばれています。
山梔窩の名は、庭に山梔窩が植えられていたからといわれていますが、藩への発言を止められた(口なし)という説もあるようです。
本殿右手には眞木和泉守記念館があり、事前に電話予約をすれば、保臣の遺品・遺墨を見ることができます。
真木和泉守記念館Asturio Cantabrio(Wikipedia CC 表示-継承 4.0)

眞木和泉守の銅像

山梔窩の左手には、真木和泉守保臣の銅像が建てられています。この銅像は2代目で、初代の銅像は1915(大正4)年に建立されました。しかし、初代銅像は第二次大戦時に供出。2代目の銅像は1968(昭和43)年、没後100年を記念し再建されました。腰に刀を差した凛々しい立ち姿の銅像は、久留米出身の工芸家・豊田勝秋によるものです。
眞木和泉守の銅像

この記事を0人の方がいいねといっています



スポンサーリンク

水天宮の人気記事