有名度
関脇大山祇神社
おおやまづみじんじゃ
愛媛県今治市大三島町宮浦3327
河野通有兜掛の楠
更新日:2026年11月6日
元寇の英雄ゆかりの楠
神門の右手には「河野通有兜掛の楠」と呼ばれる楠があります。かつては幹周14mを誇る大樹でしたが、元亨2年(1322)の兵火で大きな被害を受け、枯死しました。現在は幹の一部のみが残っており、往時の巨木の姿を見ることはできませんが、「大山祇神社のクスノキ群」の一部として国の天然記念物に指定されています。この名前は、鎌倉時代の武将・河野通有(こうのみちあり)にまつわる伝承に由来します。河野通有は伊予国(現在の愛媛県)を本拠とした名門河野氏の当主で、瀬戸内海を拠点とする三島水軍の棟梁として知られています。河野氏は代々大山祇神社を氏神として崇敬してきた一族であり、武運の神である大山積大神への信仰を篤くしていました。

弘安4年(1281)、モンゴル帝国(元)が再び日本に襲来した「弘安の役」に際し、通有は三島水軍を率いて九州へ出陣することになりました。出陣を前に、通有は代々の氏神である大山祇神社に参籠し、戦勝を祈願しました。その際、身に着けていた兜をこの楠に掛け、神前に進んだと伝えられています。これが「河野通有兜掛の楠」という名前の由来です。
通有は三島水軍を率いて筑前へ向かい、博多湾の防衛に加わりました。志賀島の戦いでは元軍の将を討ち取るなどの武功を挙げ、日本軍の勝利に大きく貢献したと伝えられています。元軍の船に乗り込んで戦うなど勇敢な戦いぶりで知られ、その活躍は河野氏の勢力回復にもつながりました。
この戦いには、大山祇神社の神使である白鷺にまつわる伝説も残されています。伝承によれば、戦の最中に白鷺が現れて通有を導き、勝利へと導いたといわれています。また、『予章記』には、通有が出陣前に神前で祈願し、御幣を焼いた灰を神酒に浮かべて飲み干したという逸話も伝えられています。これらの伝承からは、通有が大山祇神社の神威を強く信じ、戦いに臨んでいたことがうかがえます。

かつて幹周14mもの大きさを誇った楠は、今ではわずかな幹を残すのみとなりました。それでも、元寇で活躍した河野通有の戦勝祈願と白鷺の伝説を今に伝える存在として、大山祇神社の長い歴史を物語っています。
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