神廟 | 久能山東照宮 - 神社ファン

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久能山東照宮

くのうざんとうしょうぐう

静岡県静岡市駿河区根古屋389

😞 🙁 😐 🙂 😄

神廟

更新日:2026年9月26日

家康の遺体が納められた廟

廟所参道を進み、約40段の石段を上った先には、徳川家康の御遺骸を埋葬し奉った「神廟」が建っています。
家康は1616年(元和2年)4月17日に駿府城で亡くなりました。生前、家臣に対して「遺体は駿河国の久能山に葬る」ことを遺しており、その御遺命に従って御遺骸が久能山へ埋葬されました。
現在では石造りの宝塔が建っていますが、創建当初からこの姿だったわけではありません。
1616年の創建当初は木造桧皮葺の小さな祠が建てられており、1640年(寛永17年)、3代将軍徳川家光によって現在の石造宝塔へ造り替えられました。江戸時代には「御宝塔」と称され、現在は「神廟」と呼ばれています。
1955年(昭和30年)6月22日には「廟所宝塔」として国の重要文化財に指定されました。
宝塔の高さは5.5メートル、外廻りは約8メートルにも及びます。前面には唐戸が設けられ、軒下の四隅には唐銅の風鐸が掛けられています。
神廟
極彩色の御社殿とは対照的に、神廟は石造りの落ち着いた姿です。
ここで特に注目していただきたいのが、神廟が向いている方角です。
神廟は、家康の御遺命によって西向きに建てられたと伝えられています。
その西には、家康の両親が子授けを祈願して参籠したとの伝承が残る鳳来寺があります。さらに西へ進むと、松平家の菩提寺である大樹寺、家康が生まれた岡崎城があり、その延長線は京の都へと続いています。
鳳来寺は家康誕生にまつわる伝承を持つ場所、大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺、岡崎城は家康誕生の地です。いずれも家康の生涯や徳川家の歴史と深く結びついた場所です。
宝塔
つまり神廟は、単に西を向いているのではありません。
家康の生涯と深く関わった三河方面、そしてその先の京都へと向けられていることになります。久能山東照宮公式も、この鳳来寺、大樹寺、岡崎城、京都へと続く位置関係を神廟の大きな特徴として紹介しています。
家康を祀る華麗な御社殿から、石灯籠の並ぶ静かな廟所参道を歩き、最後にたどり着くのがこの場所です。
久能山東照宮を訪れたなら、御社殿だけで参拝を終えず、ぜひ神廟まで足を運んでください。ここが徳川家康の御遺命によって御遺骸が埋葬された、久能山東照宮の始まりともいえる場所です。
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かつて神廟横の石垣を支えた添石垣

神廟だけでなく、その周囲の石垣にも久能山東照宮の長い歴史を伝える遺構があります。神廟横の石垣は1617年(元和3年)に築かれたものです。
長い年月を経て石垣に崩落の恐れが生じたことから、1833年(天保4年)には既存の石垣の外側へもうひとつ石垣を設け、二重にして支える「添石垣」が築かれました。
創建当初から存在した石垣を壊して造り直すのではなく、その外側から新しい石垣を添えて補強したことから、この名があります。
添石垣
その後、平成に入って久能山東照宮では大規模な文化財保存修理が行われました。
2007年(平成19年)には「重要文化財久能山東照宮社殿等保存修理事業」の一環として、神廟周辺を創建当初の景観へ戻すため添石垣が撤去されました。
しかし、江戸時代に行われた文化財修理の歴史を伝える貴重な遺構であることから、石そのものが失われたわけではありません。
撤去された添石垣は、現在では廟所参道の横、本殿後方へ移設されています。
現在の神廟だけを見ていると、江戸時代にその石垣を守るための大掛かりな補強が行われていたことにはなかなか気付きません。
創建時の石垣、それを守るため江戸時代に築かれた添石垣、そして平成の保存修理による撤去と移設。
ひとつの石垣にも、久能山東照宮を400年以上守り伝えてきた人々の歴史が残されています。神廟を参拝したあとは、廟所参道横に移された添石垣にもぜひ目を向けてみてください。

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