有名度
関脇富士山本宮浅間大社
ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ
静岡県富士宮市宮町1-1
信玄桜
更新日:2026年9月17日
武田信玄ゆかりのしだれ桜
境内にある絵馬掛所の中央には、一本の美しいしだれ桜が植えられています。この桜は「信玄桜」と呼ばれ、戦国武将・武田信玄が浅間大社へ寄進した桜に由来すると伝えられています。浅間大社公式でも、境内のしだれ桜は信玄の寄進とされ、「信玄桜」の名で親しまれていることが紹介されています。

春になると長く垂れ下がった枝いっぱいに淡い桜の花を咲かせ、満開時には一本の木とは思えないほどの存在感を放ちます。浅間大社には約500本もの桜がありますが、武田信玄との歴史を伝える信玄桜は、そのなかでも特別な一本です。

信玄とその子・勝頼は浅間大社を篤く崇敬し、神領の寄進や社殿の修造などを行いました。現在も浅間大社には信玄の願状をはじめ、武田家から奉納された品々が残されており、武田氏と浅間大社との深い関係を伝えています。
信玄桜に絵馬を奉納し、戦国大名として甲斐から信濃、駿河へと勢力を広げた武田信玄にあやかって願いを託してみるのもよいかもしれません。
武田信玄の駿河侵攻
信玄桜の背景を知るうえで欠かせないのが、武田信玄による駿河侵攻です。永禄11年(1568)、甲斐の武田信玄は同盟関係にあった今川氏との関係を断ち、駿河国への侵攻を開始しました。その戦いのなかで重要な舞台となったのが、浅間大社のすぐ近くにあった大宮城です。
大宮城は、浅間大社の大宮司を代々務めた富士氏の城でした。当時の当主・富士信忠は今川氏に属しており、武田氏の侵攻に対して大宮城に籠城しました。
武田軍による大宮城への攻撃は、永禄11年から12年(1568~1569)にかけて3回行われました。1回目、2回目の攻撃を富士信忠は耐え抜きますが、永禄12年(1569)6月には武田軍が全軍を挙げて3度目の攻撃を行います。そして翌7月、大宮城はついに開城しました。

一方で興味深いのは、大宮城をめぐって富士氏と激しく戦った信玄が、浅間大社そのものを軽視したわけではないことです。
信玄は浅間大社へ神領を寄進し、社殿の修造を行い、願状を奉納しています。さらに武田氏による浅間大社への保護は勝頼の代にも続き、天正4年(1576)には勝頼による社殿の造営が完了し、その後も社法の制定や遷宮が行われました。
戦国大名として富士氏とは戦いながら、その富士氏が大宮司を務める浅間大社には篤い崇敬を寄せるという、戦国時代ならではの複雑な関係を見ることができます。
大宮城があった場所は現在、学校や建物が建ち並び、城の面影はほとんど残っていません。しかし発掘調査では堀や焼け焦げた木材、陶磁器などが発見され、戦国時代にこの場所で激しい戦いがあったことを今に伝えています。
また、大宮城跡の近くには「神田蔵屋敷稲荷神社」が現在も鎮座しています。この神社は、大宮城にあった蔵屋敷の守護神として祀られたことに始まると伝えられています。
浅間大社から歩いて数分ほどの場所なので、信玄桜を見たあとに大宮城跡や神田蔵屋敷稲荷神社まで足を延ばしてみると、武田信玄と富士氏が争った戦国時代の富士宮をより身近に感じることができます。
この記事を0人の方がいいねといっています
スポンサーリンク
