拝殿 | 富士山本宮浅間大社 - 神社ファン

有名度

関脇

富士山本宮浅間大社

ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ

静岡県富士宮市宮町1-1

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拝殿

更新日:2026年9月17日

荘厳な雰囲気の拝殿

富士山本宮浅間大社の拝殿は、本殿と同じく徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した御礼として造営した社殿です。
屋根は本殿と同様に檜皮葺で、外側と内側には伝統的な丹塗が施されています。極彩色による装飾は蟇股や虹梁などにとどめられており、朱塗りの社殿でありながら華美になりすぎず、荘厳な雰囲気を感じさせます。
拝殿
拝殿は間口5間、奥行5間で、正面が入母屋造、背面が切妻造となっています。正面には1間の向拝が設けられ、本殿との間には両社殿をつなぐ幣殿があります。拝殿の床は幣殿より2段高く、正面左右には濡縁が巡らされるなど、細部にも特徴があります。
慶長年間に造営された本殿は国の重要文化財、拝殿・幣殿・楼門・透塀は静岡県指定文化財となっています。

大宮司を継承してきた富士氏

拝殿前の賽銭箱には、浅間大社の大宮司を代々務めてきた富士氏の家紋である棕櫚紋(しゅろもん)が描かれています。棕櫚紋は富士氏のなかでも、当主である大宮司のみが使用できた特別な家紋とされています。
富士氏は浅間大社と深い関わりを持つ家系であるとともに、中世には現在の富士宮市一帯を治めた領主でもありました。戦国時代には今川氏に属し、大宮城を拠点として武家としても活動しています。
富士氏の家紋「棕櫚紋(しゅろもん)」
富士大宮司家は第5代孝昭天皇を祖とする和邇部氏の後裔と伝えられています。富士宮市の文化財調査報告書によると、延暦14年(795)に和邇部臣豊麿が富士郡大領となり、その後、富士氏は長きにわたって浅間大社の大宮司職を継承しました。
戦国時代には今川氏との関係を深め、永禄11年(1568)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、大宮城に籠城して武田氏と戦いました。浅間大社の祭祀を担う神職である一方、地域を治める武家でもあったことが富士氏の大きな特徴です。
幕末には44代富士重本が大宮司を務めました。重本は慶応4年(1868)、駿河国の神官らと駿州赤心隊を組織して官軍に参加し、江戸へ進軍しました。その後も上野戦争などに従軍しています。
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官軍側に加わった富士氏は旧幕府側から敵視され、富士本家も襲撃を受けました。この混乱のなかで屋敷の宝物なども強奪されたと伝えられており、長い歴史を持つ浅間大社に古い宝物類があまり残されていない背景のひとつともいわれています。
明治維新後、神社制度や神職制度が大きく変わり、富士氏が代々継承してきた大宮司職の世襲も終わりました。かつて富士氏は、厳島神主家、熱田大宮司家とともに「日本三大宮司」のひとつに数えられた名家でした。
浅間大社の祭祀を長く支えながら、領主・武家としても富士宮の歴史に深く関わった富士氏。その歴史を知ると、拝殿前の賽銭箱に描かれた棕櫚紋も興味深い見どころになります。

隠れスポットから拝殿を望む

浅間大社には、ハートのような形をした小窓から拝殿を望める隠れスポットがあります。
ハートの小窓
この形は「猪目(いのめ)」と呼ばれる日本の伝統的な文様です。猪の目をかたどったものとされ、古くから建築や装飾に用いられてきました。
小さな猪目の向こうに朱塗りの拝殿が収まる光景は、正面から眺める拝殿とはまた違った趣があります。境内を巡る際には、この小窓を探してみるのもおすすめです。

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