浅間大社と神仏習合 | 富士山本宮浅間大社 - 神社ファン

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関脇

富士山本宮浅間大社

ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ

静岡県富士宮市宮町1-1

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浅間大社と神仏習合

更新日:2026年9月18日

神仏習合時代の碑石

湧玉池のほとりに、「浅間大菩薩」と刻まれた石碑がひっそりと佇んでいます。
現在の浅間大社では木花之佐久夜毘売命を主祭神として祀っていますが、富士山信仰の長い歴史をたどると、神と仏が密接に結びついていた時代がありました。この石碑は、そうした神仏習合の歴史を今に伝えるものと考えられます。
湧玉池脇の石碑
浅間大社の境内にも、かつては多くの仏教施設が存在していました。寛文10年(1670)当時の境内を描いた「浅間大社境内絵図」では、三重塔や護摩堂などの建物を確認することができます。境内には社僧がおり、垢離場なども設けられ、神社と仏教が共存する空間が形成されていました。
富士山そのものへの信仰も、時代によって大きく姿を変えています。古代には富士山の神を「浅間大神」として祀りましたが、修験道や密教の影響を受けるようになると、富士山は仏教的な聖地としても捉えられるようになりました。
山頂の噴火口は「内院」と呼ばれ、そこには浅間大神、あるいはその本地仏である大日如来が鎮まると考えられました。山頂の峰々も仏教の曼荼羅になぞらえられ、富士山そのものが神と仏の世界が重なる巨大な霊場となっていったのです。
浅間神は「浅間大菩薩」「富士大菩薩」「富士権現」などとも呼ばれるようになりました。一方、現在の祭神である木花之佐久夜毘売命が富士山の神として広く定着したのは比較的新しく、近世になってからとされています。江戸時代に林羅山などの学者が『古事記』や『日本書紀』に登場する木花開耶姫命を浅間神社の祭神とする説を唱え、その後、徐々に定着していきました。
ところが明治時代になると、神仏分離政策とそれに伴う廃仏毀釈によって状況が大きく変わります。浅間大社や富士山から仏教に関係する施設や仏像などが取り除かれ、長く続いてきた神仏習合の姿は失われていきました。
湧玉池のほとりにある「浅間大菩薩」の石碑が、なぜ廃仏毀釈を経て現在まで残されたのか詳しいことはわかっていません。しかし、浅間大社と富士山がかつて神と仏の双方を祀る信仰の場であったことを伝える、興味深い痕跡です。
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酒蔵に隠された仏像

浅間大社からほど近い富士高砂酒造には、「富士山下山仏」と呼ばれる仏像が現在も大切に安置されています。
富士山は神道だけの霊場ではありませんでした。12世紀中頃には修行僧の末代が山頂に大日寺を構えたとされ、その後も山頂では堂社の造営や仏像・懸仏の奉納、経典の埋納などが行われました。
近世になると、大宮・村山口の山頂には大日堂、吉田口・須走口の山頂には薬師堂が建てられました。当時の登山案内図である「富士山真景之図」や「富士山明細図」を見ると、現在とは異なり、富士山頂に多くの仏像や堂社が並んでいたことがわかります。
しかし明治7年(1874)、富士山でも神仏分離に伴う廃仏毀釈が行われました。山中の仏像は撤去され、仏教に由来する地名も神道的な名称へ変更されます。大宮・村山口山頂の大日堂は現在の富士山本宮浅間大社奥宮へ、吉田口・須走口山頂の薬師堂は現在の久須志神社へと姿を変えました。
このとき山中にあった多数の石仏が破壊・廃棄される一方、金属製の仏像の一部は富士宮の人々によって山から下ろされ、寺院や個人のもとで守られました。これらが「富士山下山仏」です。
富士高砂酒造にも、富士山から下ろされた8体の仏像が伝えられています。薬師如来をはじめとする金属製の仏像で、大きなものは高さ90センチほどあります。富士宮市の資料によると、明治7年に富士山の仏像が撤去された際、富士宮の人々が強力を雇って大切な仏像を山から運び出し、高砂酒造では酒蔵の2階に8体を納めたとされています。
現在も仏像は「薬師蔵」と呼ばれる酒蔵の中2階に安置され、富士高砂酒造によって大切に守られています。
富士山下山仏のイメージ富士山下山仏イメージ画像

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