有名度
大関諏訪大社 上社前宮
すわたいしゃ かみしゃまえみや
長野県茅野市宮川2030
神殿跡
更新日:2026年10月1日
大祝が住んでいた居館の跡地
社務所の横では、なだらかな斜面に青々と茂った木々を見ることができます。ここは神殿(ごうどの)跡と呼ばれる史跡であり、かつて大祝(おおほうり)の居館が設けられていた場所でした。現在では建物は残っていませんが、「諏訪大社上社前宮神殿跡」として長野県の史跡に指定されています。前宮の歴史を知るうえで非常に重要な場所です。
この地には大祝の始祖とされる有員(ありかず)の時より居館が設けられていたと伝えられ、そこを中心に「高神殿」「中部屋」「酒倉」「馬屋」など、数多くの建物が建てられていました。

現在の前宮では本殿が境内の中心のように見えますが、かつての前宮を考えるうえでは、この神原一帯が非常に重要です。神原には大祝の神殿だけでなく、内御玉殿や十間廊をはじめ祭祀に関係する数多くの建物が軒を連ね、重要な神事が行われていました。
さらに大祝は祭祀だけでなく政治にも大きな権限を持っていたため、神原は上社の祭祀の中心地であると同時に、諏訪地方の政治を動かす中心地でもありました。現在では静かな史跡となっていますが、かつては多くの建物や神職が集まり、祭祀と政治が行われる前宮の中枢だったのです。
しかし1483年(文明15年)に諏訪氏の一族間で争いが起こり、この神聖な地が戦乱によって汚されたと伝えられています。その後、大祝の居館は前宮を離れることとなり、室町時代中頃以降、神原に存在した多くの建物も次第に姿を消していきました。
現在ではかつての神殿や付属建物を見ることはできませんが、十間廊や内御玉殿など一部の祭祀施設と、神殿跡という土地そのものが残されています。現在の前宮境内を歩く際には、本殿だけでなく、この一帯そのものがかつて上社の祭祀と政治の中心地だったことを意識すると、前宮の見え方も大きく変わります。
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上社大祝諏方家の住宅
かつては前宮境内に設けられていた大祝の居館ですが、その後、現在の諏訪市中洲へ移されました。前宮より車で5分ほど離れた場所に建っており、「大祝邸」や「大祝諏方家住宅」とも呼ばれています。居館が前宮から移された正確な経緯や時期については明らかになっていませんが、諏訪市によると、遅くとも安土桃山時代には現在地に居館を構えていたとされています。大祝の居館が置かれたことによって、周辺には「宮田渡」と呼ばれる集落も形成されました。
Saigen Jiro(Wikipedia CC0)江戸時代後期に大祝邸は焼失してしまいましたが、天保年間(1830~1844年)に再建されました。当時は約3,000坪もの広大な敷地に約320坪の主屋が建てられ、2棟の土蔵をはじめ、別荘、御祈祷殿、出産や月経期間に女性が籠る「たや部屋」など、さまざまな別棟を備えた大規模な邸宅だったと言われています。
しかし時代が進むにつれて敷地と主屋は次第に失われ、昭和初期には主屋が約80坪まで縮小されました。現在の主屋はさらに小さく約43坪となっていますが、北側の一部には江戸時代後期、天保年間に再建された当時の姿が残されています。
規模は縮小されてしまいましたが、敷地内には江戸時代後期の建物である表門や、諏訪大社の神紋と同じ梶紋が施された土蔵などの見どころが残されています。また推定樹齢約200年の大きなイチョウは諏訪市の天然記念物に指定され、雌木としては市内最大のものです。
現在、大祝諏方家住宅の建物内部は公開されていませんが、敷地内から外観を見学することができます。
かつて諏訪信仰の中心人物であった大祝ですが、明治維新によって神官の世襲制度が廃止され、大祝職もその歴史を終えました。前宮に残る神殿跡と、現在の中洲に残る大祝諏方家住宅。この二つを訪れることで、中世から近世、そして近代へと変化していった大祝の歴史をたどることができます。
大祝諏方家住宅は前宮から車で5分ほどの距離にありますので、ぜひ大祝邸にも訪れて、歴史の移り変わりを体感してみてください。
Mukai (Wikipedia CC 表示-継承 3.0)この記事を0人の方がいいねといっています
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