四脚門 | 諏訪大社 上社本宮 - 神社ファン

有名度

大関

諏訪大社 上社本宮

すわたいしゃ かみしゃもとみや

長野県諏訪市大字中洲字宮山1

😞 🙁 😐 🙂 😄

四脚門

更新日:2026年9月30日

本宮最古の建造物

入口御門から布橋を進んだ先、東宝殿と西宝殿の間に「四脚門(しきゃくもん)」が建っています。
四脚門は慶長13年(1608)に造営された、本宮に現存する最古の建造物です。天正10年(1582)、織田信長による武田氏への甲州征伐の際、本宮の社殿は兵火によって焼失しました。その後の復興のなかで、徳川家康が家臣の大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したのが現在の四脚門です。
現在の幣拝殿など主要な社殿の多くが江戸時代後期に造営されたものであるのに対し、四脚門はそれらより200年以上古く、戦国時代の兵火から本宮が復興していった歴史を現在に伝えています。
昭和58年(1983)には国の重要文化財に指定されました。「勅使門」とも呼ばれています。
四脚門

サワラの薄板を重ねたこけら葺

四脚門は切妻造で、中央には2枚の連子付き板戸が設けられています。
屋根はサワラの薄板を重ねた伝統的な「こけら葺」です。昭和期には銅板葺となっていましたが、平成24年(2012)から平成27年(2015)に行われた重要文化財保存修理によって、かつてのこけら葺の姿へと復原されました。
一見すると小さな門ですが、本宮に残る最古の建造物であることに加え、江戸時代初期の建築と伝統的なこけら葺を見ることができる貴重な建物です。
諏訪大社上社本宮 四脚門の屋根

磐座信仰の古い姿を伝える門

四脚門が重要なのは、その古さだけではありません。
東宝殿と西宝殿の間に位置する四脚門は、本宮における磐座信仰の本来の軸線を示す位置に建っています。門の先には神域が広がり、上段には硯石と呼ばれる磐座があります。
かつては上社最高位の神官であった大祝(おおほうり)が硯石へ上る際、この四脚門を通ったと伝えられています。現在は普段自由に通ることのできる門ではなく、重要な祭事が執り行われる際などに開かれます。
布橋から四脚門を見る際には、門だけでなく、その先に硯石へと続く神域があることを意識してみてください。現在の社殿が整えられる以前から続いてきた、上社本宮の古い信仰の姿を知ることができる場所です。
スポンサーリンク

甲州征伐と本宮の焼失

四脚門が造営されることになった背景には、戦国時代の本宮の焼失があります。
天正10年(1582)に行われた甲州征伐は、織田信長や徳川家康らが武田勝頼の領国へ侵攻し、武田氏を滅亡へと追い込んだ一連の戦いです。本宮が焼失したのも、この甲州征伐の最中でした。
武田氏滅亡後、織田信長は諏訪に滞在し、本宮近くの法華寺に本陣を置いたとされます。その後、戦乱によって大きな被害を受けた本宮では復興が進められ、慶長13年(1608)、徳川家康によって四脚門が造営寄進されました。
戦国時代の焼失と、江戸時代初期の復興。その両方の歴史を一つの建物からたどることができるのが四脚門です。真相は明らかにされていませんが、法華寺に訪れ当時に思いをはせるのもいいかもしれません。
法華寺

甲州征伐と本能寺の変の関係

甲州征伐と諏訪には、明智光秀と本能寺の変にまつわる興味深い逸話も残されています。武田氏を滅ぼした織田信長は諏訪の法華寺に本陣を置きました。このとき、明智光秀が信長の怒りに触れ、諸将の前で叱責・折檻されたという話が伝えられています。
光秀はこの一件によって信長に恨みを抱き、それが本能寺の変を起こす一因になったともいわれています。
そして甲州征伐からわずか数か月後の天正10年(1582)6月2日、明智光秀は京都の本能寺を襲撃し、織田信長は自害しました。
ただし、光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかについてはさまざまな説があり、この「折檻説」もそのひとつにすぎません。真相は現在も明らかになっていません。
織田信長、徳川家康、明智光秀ら戦国時代を代表する人物の歴史と、本宮の焼失・復興が交差する場所でもある上社本宮。法華寺は本宮の近くにあるため、四脚門とあわせて訪れ、激動の時代に思いをはせるのもおすすめです。

この記事を0人の方がいいねといっています



スポンサーリンク

諏訪大社 上社本宮の人気記事