有名度
前頭大瀧神社・岡太神社
おおたきじんじゃ・おかもとじんじゃ
福井県越前市大滝14-1
福井県越前市大滝14-1

TR15336300101(wikipedia CC 表示-継承 4.0)
かんたんご利益
ご利益
岡太神社:和紙の神様
御祭神
大瀧神社
國常立尊 くにのとこたちのみこと
大瀧神社
伊弉諾尊 いざなぎのみこと
岡太神社
川上御前(岡太大神) かわかみごぜん(おかもとのおおかみ)
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(3柱)」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
大瀧神社・岡太神社は福井県越前市に鎮座する神社。大瀧神社の御祭神は國常立尊、伊弉諾尊、岡太神社の御祭神は川上御前(岡太大神)の計3柱をまつる。
社格は旧県社。
伝承によれば、岡太神社の起源は約1500年前にさかのぼる。昔、この地の岡太川上流に美しい姫が現れ、人々に紙漉きの技術を授けたといい、その姫を「川上御前」と崇め、紙祖神として祀ったのが岡太神社の始まりである。一方、大瀧神社の創建については、社伝では推古天皇の御代(592‐638年)に大伴連大瀧によって勧請されたことに始まるとされる。さらに、養老3年(719年)、修験道の僧である泰澄大師が当地を訪れ、もともと霊山と仰がれていた大徳山(権現山)に登り、地主神として岡太神社の紙祖神・川上御前を御前立とし、國常立尊・伊弉諾尊を主祭神とする神仏習合の霊場を開いた。十一面観音を本地仏とし、山上山下に堂宇を建立、別当寺として大瀧寺を設け、社僧を配置して修行と祈願の場とした。この神仏習合時代には、寺院としての機能もあわせもち、平安時代から中世にかけては伽藍が繁茂し、最盛期には48坊の堂塔を擁し、社僧は600~700人にまで達したと伝えられており、加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ大きな霊場であった。だが興国2年(1341年)には新田勢と共に足利軍に抗して兵火を受け、一時衰頽した。室町時代中葉には国主であった朝倉氏の帰依をうけて再興され、宗教・軍事・経済面で再び大きな勢力となった。また、このとき、大瀧城および複数の出城も整備され、難攻不落を誇ったと伝えられている。しかし、後に織田信長の一向一揆討伐のさい大瀧城は落城し、48坊といわれた堂塔は焼失した。これによって一時は壊滅的な衰退を迎えたものの、戦国期~江戸期にかけては豊臣・徳川の庇護を受け、特に福井藩主松平氏の尊崇をうけて社殿の再建や社運の復興が行われた。明治元年(1868年)の神仏分離令により大瀧寺は廃され、神社としての社格が確立し、郷社・のち県社に列せられた。また、大正12年(1923年)には当時の大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、以降、全国の紙業界の総鎮守として崇敬を集めるようになった。
1843年(天保14年)に建立された本殿と拝殿が一体化した複合社殿である。この社殿は、八棟造とも称される複雑な構造をもつ屋根を持ち、檜皮葺きの屋根が幾重にも折り重なった様は「日本一複雑な屋根」と評され、訪れる者を圧倒する。屋根だけでなく、社殿全体には龍や鳳凰、獅子、草花などをモチーフにした精緻かつ華麗な彫刻が施されており、その芸術性・工芸性の高さは特筆に値するこの下宮本殿・拝殿は1984年(昭和59年)に国の重要文化財に指定され、建築史・文化財的価値が評価されている。
社格は旧県社。
伝承によれば、岡太神社の起源は約1500年前にさかのぼる。昔、この地の岡太川上流に美しい姫が現れ、人々に紙漉きの技術を授けたといい、その姫を「川上御前」と崇め、紙祖神として祀ったのが岡太神社の始まりである。一方、大瀧神社の創建については、社伝では推古天皇の御代(592‐638年)に大伴連大瀧によって勧請されたことに始まるとされる。さらに、養老3年(719年)、修験道の僧である泰澄大師が当地を訪れ、もともと霊山と仰がれていた大徳山(権現山)に登り、地主神として岡太神社の紙祖神・川上御前を御前立とし、國常立尊・伊弉諾尊を主祭神とする神仏習合の霊場を開いた。十一面観音を本地仏とし、山上山下に堂宇を建立、別当寺として大瀧寺を設け、社僧を配置して修行と祈願の場とした。この神仏習合時代には、寺院としての機能もあわせもち、平安時代から中世にかけては伽藍が繁茂し、最盛期には48坊の堂塔を擁し、社僧は600~700人にまで達したと伝えられており、加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ大きな霊場であった。だが興国2年(1341年)には新田勢と共に足利軍に抗して兵火を受け、一時衰頽した。室町時代中葉には国主であった朝倉氏の帰依をうけて再興され、宗教・軍事・経済面で再び大きな勢力となった。また、このとき、大瀧城および複数の出城も整備され、難攻不落を誇ったと伝えられている。しかし、後に織田信長の一向一揆討伐のさい大瀧城は落城し、48坊といわれた堂塔は焼失した。これによって一時は壊滅的な衰退を迎えたものの、戦国期~江戸期にかけては豊臣・徳川の庇護を受け、特に福井藩主松平氏の尊崇をうけて社殿の再建や社運の復興が行われた。明治元年(1868年)の神仏分離令により大瀧寺は廃され、神社としての社格が確立し、郷社・のち県社に列せられた。また、大正12年(1923年)には当時の大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、以降、全国の紙業界の総鎮守として崇敬を集めるようになった。
1843年(天保14年)に建立された本殿と拝殿が一体化した複合社殿である。この社殿は、八棟造とも称される複雑な構造をもつ屋根を持ち、檜皮葺きの屋根が幾重にも折り重なった様は「日本一複雑な屋根」と評され、訪れる者を圧倒する。屋根だけでなく、社殿全体には龍や鳳凰、獅子、草花などをモチーフにした精緻かつ華麗な彫刻が施されており、その芸術性・工芸性の高さは特筆に値するこの下宮本殿・拝殿は1984年(昭和59年)に国の重要文化財に指定され、建築史・文化財的価値が評価されている。
スポンサーリンク
神社詳細
摂末社・境内社
情報募集
例祭
情報募集
文化財
情報募集
建築
情報募集
神紋
情報募集
出典
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%80%A7%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%83%BB%E5%B2%A1%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE
福井県神社庁
https://www.jinja-fukui.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%80%A7%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%83%BB%E5%B2%A1%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE
福井県神社庁
https://www.jinja-fukui.jp/
