崇徳天皇 神社の神様 - 神社ファン

崇徳天皇

すとくてんのう

  • 歴史的人物
  • 男神・男性
崇徳天皇

藤原豪信 (天子摂関御影 パブリック・ドメイン)

祭神ランキング73位

  • 天皇

平安 [1119年~1164年]

崇徳天皇とは?

崇徳天皇(1119~1164)は平安時代後期の第75代天皇。諱《いみな》は顕仁《あきひと》。第74代鳥羽天皇の第一皇子で、母は藤原璋子。保安4年(1123)、5歳の時に即位した。崇徳天皇は実際には鳥羽天皇ではなく、曾祖父にあたる白河法皇の子であったという説も古事談などに伝えられ、即位には白河法皇の意向が強く働いたとされる。
白河法皇の崩御後、鳥羽上皇との関係は悪化し、永治元年(1141)には後の近衛天皇となる体仁親王へ譲位した。近衛天皇の崩御後には自身の皇子・重仁親王の即位を望んだが実現せず、異母弟の雅仁親王が後白河天皇として即位した。鳥羽法皇の崩御後、皇位継承や摂関家の対立などを背景に保元元年(1156)に保元の乱が起こり、崇徳上皇側には源為義・源為朝らがついたが、平清盛・源義朝らを擁する後白河天皇側に敗れた。
敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流され、その後は都へ戻ることなく長寛2年(1164)に同地で崩御した。讃岐では仏教に深く帰依し、写経した五部大乗経を都へ献上しようとしたものの拒絶されたという伝承が保元物語などに残る。同書では、これを機に強い怨念を抱き、魔王となることを誓った崇徳上皇の姿が描かれている。ただし、これは後世に成立した軍記物語に描かれた伝承であり、史実そのものとは区別する必要がある。
崇徳上皇の崩御後、都では安元の大火や鹿ケ谷の陰謀などの災害・政変が相次ぎ、これらを崇徳上皇の怨霊によるものとする見方が広がった。朝廷もその霊を鎮めるようになり、治承元年(1177)には崇徳院の追号が贈られた。後世には菅原道真、平将門とともに日本三大怨霊の一人として知られるようになり、強大な怨霊を神として祀る御霊信仰の対象となった。
明治元年(1868)には明治天皇の命によって讃岐の白峯陵から崇徳天皇の神霊が京都へ迎えられ、白峯神宮に祀られた。かつて怨霊として恐れられた崇徳天皇は、その霊を鎮め国家を守護する神としても崇敬されるようになった。
崇徳天皇は白峯神宮(京都府京都市)、安井金比羅宮(京都府京都市)、金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)などで祀られている。安井金比羅宮では、讃岐国に配流された崇徳上皇が金刀比羅宮に参籠し、一切の欲を断ち切ったとの伝承などから、悪縁を断ち良縁を結ぶ神として信仰されている。崇徳天皇には悪縁切り、良縁祈願、厄除け、国家安泰などのご利益があるとされる。

エピソード

5歳で即位し院政の争いに翻弄された天皇
崇徳天皇は元永2年(1119)、鳥羽天皇と待賢門院藤原璋子《たいけんもんいんふじわらのしょうし》の皇子として生まれた。諱は顕仁という。保安4年(1123)に鳥羽天皇から譲位を受け、わずか5歳で第75代天皇となった。しかし、当時の政治を主導していたのは、院政を敷く曾祖父の白河天皇であった。
白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇が院政の実権を握った。永治元年(1141)、崇徳天皇は鳥羽上皇の意向によって、異母弟の近衛天皇へ譲位した。崇徳上皇はまだ23歳であったが、近衛天皇が崇徳上皇の養子ではなく弟と位置づけられたため、崇徳上皇が父として院政を行う道は閉ざされた。
久寿2年(1155)に近衛天皇が皇子を残さず崩御すると、崇徳上皇は自身の皇子である重仁親王の即位を期待した。しかし、新たに即位したのは異母弟の後白河天皇であった。崇徳上皇とその子は再び皇位から遠ざけられたのである。
崇徳天皇の生涯は、単に怨霊となった天皇の物語ではない。幼くして即位しながら政治の実権を持てず、譲位後も院政を開けなかったことが、のちの対立を生む背景となった。天皇・上皇・摂関家が権力を争った平安時代末期の複雑な政治情勢を、その身に受けた人物であった。

出典・参考:『中右記』、『本朝世紀』、白峯神宮公式サイト「御祭神と御聖徳崇敬の意義」



保元の乱に敗れて讃岐へ配流される
保元元年(1156)7月、鳥羽法皇の崩御をきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇の対立が武力衝突へ発展した。摂関家でも藤原忠通と藤原頼長が対立しており、それぞれの陣営に武士が集まった。崇徳上皇方には源為義、源為朝らが加わり、後白河天皇方には平清盛、源義朝らが加わった。
崇徳上皇方は白河北殿《しらかわきたどの》に立てこもったが、後白河天皇方の夜襲と放火を受けて敗北した。戦いは短期間で決着し、崇徳上皇は仁和寺へ逃れたのち、出家して朝廷に降伏した。しかし赦されることはなく、讃岐国《さぬきのくに・現在の香川県》への配流が決まった。
上皇が罪人として都から遠く離れた地へ流されることは、当時としても異例の処置であった。崇徳上皇は讃岐国で約8年間を過ごしたが、都へ戻ることはかなわず、長寛2年(1164)に崩御した。その亡骸は白峯山で荼毘《だび》に付され、現在の白峯陵に葬られた。
保元の乱は、天皇家と摂関家の内部対立を武士の力で解決した争いであり、武士が政治の表舞台へ進出する大きな契機となった。崇徳天皇はその敗者として配流されたが、その悲劇的な最期が、後世の御霊信仰や怨霊伝説を生み出す土台となったのである。

出典・参考:『兵範記』、『保元物語』、白峯神宮公式サイト「御祭神と御聖徳崇敬の意義」、白峯寺公式サイト「白峯寺について」



経典を血で書いたという怨霊伝説
讃岐国へ流された崇徳上皇は、現世への執着を断つため仏教の経典を書写したと伝えられている。軍記物語『保元物語』では、崇徳上皇が法華経、華厳経、涅槃経など五部の大乗経を書写し、京都の寺へ納めてほしいと朝廷に差し出したと語られる。
しかし朝廷は、経典に呪詛《じゅそ》が込められているのではないかと疑い、受け取りを拒んで讃岐へ送り返した。『保元物語』では、これを知った崇徳上皇が舌をかみ切り、その血で経典に誓いの言葉を書き、日本国の大魔縁《だいまえん》となって朝廷を乱すと誓ったとされる。その後は髪や爪を伸ばし、生きながら天狗のような姿になったとも描かれている。
ただし、血書や魔王となる誓いは『保元物語』によって広く知られた物語的な描写であり、同時代の確実な記録によって確認できる事実ではない。経典を書写した伝承と、後世に形成された怨霊像は分けて考える必要がある。
崇徳上皇の崩御後、都では政変、火災、要人の死などが相次いだ。人々はこれらを、非業の死を遂げた上皇の御霊によるものと考えるようになった。政治的な敗者の無念を災害や社会不安と結びつけ、祭祀によって鎮めようとする御霊信仰が、崇徳天皇を日本を代表する怨霊の一人へ変えていったのである。

出典・参考:『保元物語』、『百錬抄』、白峯神宮公式サイト「崇徳天皇御廟所」



恐れられた御霊から白峯神宮の祭神へ
崇徳上皇の崩御後も、朝廷はしばらく上皇を配流地にちなんで讃岐院と呼んでいた。しかし安元3年(1177)、京都で大火や政変などが相次ぐと、人々は保元の乱で非業の死を遂げた者たちの御霊を恐れるようになった。朝廷は讃岐院に崇徳院の号を贈り、乱で命を落とした藤原頼長にも官位を追贈して、その霊を慰めた。
寿永3年(1184)には、後白河法皇のもとで保元の乱の戦場付近に崇徳院廟が造営された。崇徳院を災いをもたらす存在として排除するのではなく、祭祀の対象として丁重に祀ることで、国を守る御霊へ転じてもらおうとしたのである。
幕末には孝明天皇が崇徳天皇の御霊を讃岐から京都へ迎えることを望んだが、実現しないまま崩御した。その遺志を継いだ明治天皇は、慶応4年(1868)に京都の飛鳥井家邸宅跡へ崇徳天皇の御霊を迎え、白峯宮を創建した。のちに淳仁天皇も合祀され、昭和15年(1940)に白峯神宮と改称された。
香川県坂出市の白峯寺では、白峯陵に隣接する頓証寺殿《とんしょうじでん》で崇徳天皇を祀り、現在も命日に御正宸祭《ごしょうしんさい》が行われている。崇徳天皇への信仰は、怨霊への恐怖だけでなく、悲運の生涯を慰め、その御霊に国家安泰や人々の平穏を願う祭祀として受け継がれている。

出典・参考:『百錬抄』、『玉葉』、白峯神宮公式サイト「白峯神宮由緒」「略年表」、白峯寺公式サイト「白峯寺について」



百人一首に残る和歌の天皇
崇徳天皇は政治的な悲劇や怨霊伝説だけでなく、優れた歌人としても知られている。幼い頃から和歌や管絃《かんげん》に親しみ、天皇や上皇となってからは歌会を催し、藤原顕輔《ふじわらのあきすけ》に勅撰和歌集『詞花和歌集《しかわかしゅう》』の編纂を命じた。
小倉百人一首には、崇徳院の歌として「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」が選ばれている。流れの速い川が岩に遮られて二つに分かれても、下流で再び一つになるように、離れた相手といつか必ず再会したいという思いを詠んだ恋歌である。
この歌は保元の乱や讃岐配流より前に詠まれ、『詞花和歌集』の恋歌に収められたものである。後世には崇徳天皇の生涯と重ね、引き離された者との再会や、都へ帰る望みを表す歌のように受け取られることもあった。しかし、本来は政治的な境遇を直接詠んだ歌ではない。
崇徳天皇を怨霊としてのみ捉えると、和歌を愛し、勅撰集の編纂を進めた文化的な事績が見えにくくなる。白峯神宮が和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅跡に創建されたことも、和歌に深く関わった崇徳天皇の姿を現在へ伝えている。

出典・参考:『詞花和歌集』、『小倉百人一首』、白峯神宮公式サイト「御祭神と御聖徳崇敬の意義」「白峯神宮由緒」



金刀比羅宮に祀られ全国へ広がった崇徳天皇
香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮では、御本宮の祭神として大物主神と崇徳天皇を祀っている。崇徳天皇が祀られた経緯について、金刀比羅宮には讃岐配流中の伝承が残されている。
金刀比羅宮の社伝によれば、保元の乱に敗れて讃岐国《さぬきのくに・現在の香川県》へ流された崇徳上皇は、象頭山《ぞうずさん》の金毘羅大権現を篤く崇敬した。境内にあった古籠所《ころうしょ》へ参籠し、付近の御所之尾《ごしょのお》を行宮《あんぐう》としたと伝えられている。これは金刀比羅宮に伝わる由緒であり、同時代の記録によって確認できる事実とは区別する必要がある。
崇徳上皇が長寛2年(1164)に讃岐国で崩御すると、その翌年の永万元年(1165)、金毘羅大権現は崇徳天皇の神霊を象頭山へ迎え、御本社の相殿《あいどの》に奉斎したと伝えられる。崇徳天皇が都で怨霊として恐れられ、朝廷による慰霊が本格化する以前から、讃岐ではゆかりの天皇として祀られたことになる。
金毘羅大権現への信仰は、航海安全の神として江戸時代に全国へ広がった。各地に金毘羅宮、金刀比羅神社、琴平神社などが勧請され、その多くで大物主神とともに崇徳天皇を祭神とする形が受け継がれた。崇徳天皇を祀る神社が全国に多いのは、御霊信仰だけでなく、金毘羅信仰の全国的な広がりによるところが大きいのである。

出典・参考:金刀比羅宮公式サイト「由緒」「参拝ガイド 御本宮編」



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ご神徳

縁切り 縁結び

別称・異称

讃岐院

さぬきいん

その他

祀られている主な神社

金刀比羅宮
(香川県琴平町892-1)
白峯神宮
(京都府上京区今出川通堀川東入飛鳥井町261)
宇多須神社
(石川県金沢市東山1丁目30-8)
安井金比羅宮
(京都府東山区東大路松原上ル下弁天町70)
烈々布神社
(北海道東区北42条東10丁目1番地)