ヤマトタケル
やまとたける
- 神話・伝説
- 男神・男性
祭神ランキング29位
ヤマトタケルとは?
ヤマトタケルは記紀神話などに登場する古代日本の皇族である。『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記される。本名はヲウス、別名をヤマトヲグナといい、『古事記』では後にヤマトタケルと名乗るようになったと伝える。景行天皇を父に持ち、子に仲哀天皇らがいる。
名の由来として、『古事記』に次のような逸話がある。父から九州のクマソタケル兄弟の征伐を命じられたヲウスは、女装して兄弟の酒宴に潜り込み、これを討つ。死の間際に弟建はヲウスの武勇をたたえ、西国で自分たちより強い者はいなかったが、大倭国にはさらに強い男がいたとして、倭建御子の名を贈ったという。
この活躍の後、ヤマトタケルは景行天皇の命令を受けて東国へ向かった。叔母の倭比売命から授けられた草薙神剣を携え、各地の敵対勢力を平定する。この間、尾張国(愛知県)で宮簀媛と結婚し、東征から戻ると再びそのもとを訪れた。しかし、草薙神剣を宮簀媛のもとに置いたまま伊吹山の神を討ちに向かい、山の神の力によって重い病を負う。大和国を目指して帰る途中、伊勢国(現在の三重県)の能褒野で亡くなり、その魂は大きな白鳥となって飛び去ったという。
ヤマトタケルは熊襲征伐や東国平定を成し遂げた武勇の英雄である一方、悲劇的な生涯を送った人物としても描かれている。父である景行天皇の命令によって各地を転戦し、東征では后の弟橘比売命を失った。帰途には故郷の大和国を思う歌を詠みながら、帰り着くことなく能褒野で亡くなり、その魂は白鳥となって大和を目指したという。強さだけでなく、父との隔たり、愛する者との別れ、故郷への思いを抱えた姿が人々の共感を集め、日本を代表する悲劇の英雄として語り継がれてきた。こうした物語を背景に神格化され、武勇、勝運、国土安穏、厄除けなどを司る神として全国で祀られている。
主祭神として祀る代表的な神社には建部大社、大鳥大社、古峯神社、走水神社などがある。また、三峯神社や寶登山神社をはじめ、東征の経路とされる各地の神社にも創建や鎮座に関わる伝承が残る。死後に白鳥となった伝説は、大鳥大社を中心とする大鳥・白鳥系の神社へ広がった。栃木県の古峯神社から勧請された古峯神社や古峯社でも、火防、厄除け、開運の神として祀られている。さらに、熱田神宮では草薙神剣を御霊代とする熱田大神を主祭神とし、ヤマトタケルを相殿神として祀る。草薙神剣を祀る別宮八剣宮や、各地の八剣神社、熱田神社などにも、ヤマトタケルの東征と草薙神剣に関わる信仰が受け継がれている。
エピソード
ヤマトタケルは、もとは小碓命と呼ばれていた。『古事記』によれば、父の景行天皇は、小碓命の兄である大碓命が朝夕の食事に姿を見せないことを不審に思い、小碓命に兄をねぎらい教え諭すよう命じた。しかし、その後も大碓命が姿を見せないため、景行天皇が小碓命に何をしたのか尋ねると、小碓命はすでに兄を捕らえて殺したと答えた。
小碓命は厠に入った大碓命を待ち伏せし、つかみ潰して手足を引きちぎり、薦に包んで捨てたという。景行天皇は、この息子が持つ並外れた力と激しい性質を恐れた。そこで小碓命を宮廷から遠ざけるように、西方の熊曾建兄弟を討つ任務を命じたとされる。
一方、『日本書紀』では兄殺しの展開が異なる。大碓皇子は父の命令を恐れて姿を隠し、景行天皇はこれを責めたものの、小碓尊が兄を殺したとは記していない。兄を殺したことで父に恐れられたという話は『古事記』に見える伝承である。
この物語は、ヤマトタケルが初めから理想的な英雄として描かれていたわけではないことを示している。制御することが難しいほどの力を持つ若者が、遠征を重ねる中で国を代表する英雄へ変わっていくのである。
出典・参考:『古事記』中巻 景行天皇条、『日本書紀』巻第七 景行天皇紀
父の景行天皇から熊曾建兄弟の討伐を命じられた小碓命は、まだ少年であった。『古事記』によれば、出発にあたって叔母の倭比売命から衣装を授かり、髪を女性のように結って熊曾建の館へ潜入した。館では新築を祝う宴が開かれており、小碓命は少女に姿を変えて宴に紛れ込んだ。
熊曾建兄弟は美しい少女と思い、小碓命を二人の間に座らせて酒宴を楽しんだ。宴が盛り上がったところで、小碓命は衣の内側に隠していた剣を取り出し、まず兄建を刺した。逃げようとした弟建も追い詰め、剣で刺し貫いた。
死を目前にした弟建は、剣を抜くのを待つよう小碓命に頼み、名を尋ねた。小碓命が景行天皇の御子であると答えると、弟建は西国に自分たちより強い者はいなかったが、大倭国にはさらに強い人物がいたとたたえた。そして自らの建の名を贈り、今後は倭建御子と名乗るよう申し出た。小碓命がヤマトタケルと呼ばれるようになった由来である。
ヤマトタケルは倒した敵から名を奪ったのではなく、敵にその強さを認められて名を贈られた英雄として描かれている。ただし、女装して熊襲を討つ展開や名を譲られる場面は、おもに『古事記』に記された伝承である。
出典・参考:『古事記』中巻 景行天皇条
西方から戻ったヤマトタケルは、休む間もなく東国の平定を命じられた。『古事記』では、ヤマトタケルは父が自分を死なせようとしているのではないかと嘆き、伊勢神宮に仕える叔母の倭比売命に窮状を訴えた。倭比売命は草薙神剣と袋を授け、危急の時には袋を開くよう告げた。
相武国《さがむのくに》(現在の神奈川県周辺)に入ると、国造が野原に大きな沼があると偽ってヤマトタケルを誘い出した。ヤマトタケルが野中へ入ったところで周囲から火を放ち、焼き殺そうとしたのである。策略に気づいたヤマトタケルが倭比売命から渡された袋を開くと、中には火打石が入っていた。
ヤマトタケルは草薙神剣で周囲の草を刈り払い、火打石で迎え火を放った。火の勢いを敵の側へ押し返して窮地を脱し、国造らを討ったという。『古事記』では、この出来事から火攻めの地を焼遣《やきづ》と呼ぶようになったと伝える。
『日本書紀』にも駿河国(静岡県)で火攻めに遭う物語があるが、剣が自ら草を薙いだため草薙剣と呼ばれるようになったとするなど、細部は異なる。いずれの伝承でも、草薙神剣はヤマトタケルを危機から救い、東征を成功へ導いた重要な神宝として描かれている。
出典・参考:『古事記』中巻 景行天皇条、『日本書紀』巻第七 景行天皇紀
ヤマトタケルが相模国から上総国へ渡ろうとした時、海の神が荒波を起こし、船は前へ進めなくなった。同行していた后の弟橘比売命は、この荒波を鎮めるため、自ら海へ身を投じることを決意した。夫であるヤマトタケルに代わって自分が海に入るので、東国平定の任務を成し遂げるよう願ったのである。
弟橘比売命は海面に畳や皮、絹を敷かせ、その上に降りて波間へ消えた。すると荒れ狂っていた海は静まり、ヤマトタケルの船は無事に上総国へ渡ることができた。『古事記』では、それから7日後、弟橘比売命の櫛が海辺へ流れ着いたため、その櫛を納めて墓を造ったと伝える。
東征を終えたヤマトタケルは、足柄の坂から東の方角を見渡し、失われた妻を思って吾妻はやと嘆いた。『古事記』は、この言葉によって東国を吾妻と呼ぶようになったと説明する。
『日本書紀』でも弟橘媛は海へ身を投じるが、吾嬬はやという言葉は碓日坂で発せられ、弟橘媛をしのぶ場面として描かれている。ヤマトタケルの東征は一人の武力だけで成し遂げられたものではない。弟橘比売命の犠牲によって命と任務を救われた物語でもある。
出典・参考:『古事記』中巻 景行天皇条、『日本書紀』巻第七 景行天皇紀
東国平定を終えたヤマトタケルは、尾張国(愛知県)へ戻り、宮簀媛命と結婚した。その後、伊吹山の神を討つことになったが、東征で幾度も危機から救ってくれた草薙神剣を宮簀媛命のもとに置き、素手でも山の神を倒せると考えて出発した。
伊吹山で白い猪に出会ったヤマトタケルは、これは山の神の使いであり、帰りに討てばよいと口にした。しかし、その猪は使いではなく山の神自身であった。ヤマトタケルの言葉に怒った山の神は激しい氷雨を降らせ、ヤマトタケルを惑わせた。ヤマトタケルは山を下り、清水で意識を取り戻したものの、身体はすでに重い病に侵されていた。
ヤマトタケルは尾津の崎、三重、能煩野《のぼの》へと進み、故郷である大和国を思う歌を詠んだ。しかし、大和へ帰り着くことはできず、能煩野で亡くなった。『日本書紀』でも伊吹山の神が大蛇となって道を塞ぎ、ヤマトタケルが神の力を軽視して進んだため病を得たとする。
草薙神剣を持たずに伊吹山へ向かったことは、ヤマトタケルの最期を決定づける転機となった。数々の敵を退けた英雄であっても、山の神の力には勝つことができなかったのである。
出典・参考:『古事記』中巻 景行天皇条、『日本書紀』巻第七 景行天皇紀
伊勢国の能褒野でヤマトタケルが亡くなると、大和にいた后や子どもたちが駆けつけ、陵を築いた。『古事記』では、遺族たちが陵の周囲を這い回り、ヤマトタケルをしのぶ歌を詠んだと伝える。するとヤマトタケルの魂は八尋白智鳥《やひろしろちどり》となり、陵から飛び立って海辺へ向かった。
后や子どもたちは足を傷つけながら白鳥を追い続けた。白鳥は河内国(大阪府)の志幾に降り立ち、そこにも陵が造られたが、再び天へ飛び去ったという。『日本書紀』では、白鳥は能褒野から大和国の琴弾原、さらに河内国の旧市邑へ移り、それぞれの地に陵が築かれたと伝える。現在、三重県亀山市の能褒野王塚古墳は宮内庁によって日本武尊能褒野墓として管理され、琴弾原と古市にも白鳥陵の伝承が残っている。
白鳥伝説は、この三つの陵だけにとどまらない。大阪府堺市の大鳥大社では、ヤマトタケルの魂である白鳥が最後に舞い降り、その地に社を建てたことを創建の起源とする。白鳥が降り立つと一夜にして樹木が生い茂ったとされ、境内は千種の杜と呼ばれている。
そのほかにも、大鳥神社や白鳥神社、ヤマトタケルゆかりの地域には、白鳥が舞い降りた、羽を休めた、御霊を祀ったとする伝承が残る。これらすべてが『古事記』『日本書紀』に記された飛行経路というわけではなく、記紀の白鳥伝説をもとに各地で成立した信仰や地域伝承である。ヤマトタケルは白鳥となって故郷を目指した英雄として、各地の神社に祀られるようになったのである。
出典・参考:『古事記』中巻 景行天皇条、『日本書紀』巻第七 景行天皇紀、大鳥大社、亀山市
ヤマトタケルを主祭神として祀る代表的な神社が、近江国一之宮の建部大社と和泉国一之宮の大鳥大社である。建部大社では武勇と出世開運の神として信仰され、大鳥大社ではヤマトタケルの魂である白鳥が舞い降りたとの伝承から、勝運、開運、厄除け、交通安全の神として崇敬されている。この白鳥伝説は各地に広がり、大鳥神社や白鳥神社などでヤマトタケルを祀る信仰へつながった。
栃木県鹿沼市の古峯神社も、ヤマトタケルを主祭神とする代表的な神社である。古峯神社は日光修験とも関係が深く、ヤマトタケルは火防、厄除け、開運の神として信仰されてきた。古峯信仰は東日本を中心に広がり、各地の神社には古峯神社から勧請された古峯神社や古峯社が祀られている。天狗をヤマトタケルの使いとする信仰も特徴である。
神奈川県横須賀市の走水神社では、ヤマトタケルと弟橘比売命を主祭神として祀る。東征の途中、ヤマトタケルが走水から上総国へ渡ろうとした際、弟橘比売命が荒海を鎮めるため海へ身を投じた伝承の地である。このほか三峯神社や寶登山神社など、東征でヤマトタケルが通ったとされる地域には、尊が神を祀った、武具を残した、休息したといった由緒を持つ神社が数多く残る。
熱田神宮では、草薙神剣を御霊代とする熱田大神を主祭神とし、ヤマトタケルを相殿神として祀っている。境内の別宮八剣宮はヤマトタケルを直接祀る宮ではなく、勅命によって神剣を造り祀ったことを起源とする。各地の八剣神社や熱田神社にも、草薙神剣とヤマトタケルの伝承に基づき、ヤマトタケルを祭神とする例がある。
ヤマトタケル信仰は、建部大社を中心とする英雄神としての信仰、大鳥・白鳥系の白鳥信仰、古峯神社を中心とする火防・厄除けの信仰、東征ゆかりの地域信仰、草薙神剣と結びつく熱田・八剣信仰という複数の形で全国へ広がっているのである。
出典・参考:建部大社、大鳥大社、古峯神社、走水神社、三峯神社、熱田神宮
出典文献
古事記
日本書紀
先代旧事本紀
古語拾遺
新撰姓氏録
肥前国風土記
常陸国風土記
神格
ご神徳
別称・異称
やまとたけるのみこと
古事記
倭建御子やまとたけるのみこ
古事記
倭男具那命やまとおぐなのみこと
古事記
倭男具那王やまとおぐなのみこ
古事記
小碓命おうすのみこと
古事記/先代旧事本紀
日本武尊やまとたけるのみこと
日本書紀/先代旧事本紀/古語拾遺/新撰姓氏録/肥前国風土記
小碓尊おうすのみこと
日本書紀/先代旧事本紀
小碓王おうすのみこ
日本書紀
日本武やまとたける
日本書紀
日本武皇子やまとたけるのみこ
日本書紀
日本童男やまとおぐな
日本書紀
倭建尊やまとたけるのみこと
先代旧事本紀/新撰姓氏録
倭武尊やまとたけるのみこと
古語拾遺
日本武命やまとたけるのみこと
古語拾遺/尾張国風土記 逸文
倭建天皇やまとたけるすめらみこと
常陸国風土記 倭健命やまとたけるのみこと
その他
日本建尊やまとたけるのみこと
その他
日本武雄命やまとたけるのみこと
その他
神倭健命かむやまとたけるのみこと
その他
祀られている主な神社
熱田神宮
(愛知県熱田区神宮一丁目1番1号)
古峯神社
(栃木県鹿沼市草久3027)
来宮神社
(静岡県熱海市西山町43-1)
大鳥大社
(大阪府西区鳳北町1-1-2)
中之嶽神社
(群馬県下仁田町大字上小坂1246番地)




