八衢比古
やちまたひこ
- 神話・伝説
- 男神・男性

祭神ランキング86位
八衢比古とは?
八衢比古《やちまたひこ》は、道の分岐点や都、集落の境界を守る男神である。『古事記』『日本書紀』には登場せず、平安時代に編纂された『延喜式』所収の「道饗祭祝詞」に、八衢比売、久那斗とともに登場する。
神名の「八衢」は多くの道が分かれる場所、「比古」は男神を表す。八衢比古は対をなす女神の八衢比売とともに、道を通じて入り込もうとする悪霊や疫病、災厄を防ぐ神として祀られた。道饗祭では久那斗も加えた三柱に供物を捧げ、根の国や底の国から都へ来る荒ぶるものを防ぐよう祈願した。
八衢比古そのものは記紀に登場しないが、後世には『古事記』に登場する道や境界に関わる神々との関係も論じられた。江戸時代の国学者・賀茂真淵は『祝詞考』で、イザナギが黄泉国から帰還して禊を行う前に帯から成った道之長乳歯神を八衢比古・八衢比売にあたる神と解釈した。また、本居宣長は『古事記伝』で、褌から成った道俣神と八衢比古・八衢比売との関係を論じている。これらは『古事記』本文に記された同一神関係ではなく、後世の国学者による解釈である。
後世には塞の神や道祖神の信仰とも結びつき、村境、辻、峠などを守る神として信仰された。また、道を守る神格から旅や交通の守護とも結びつき、交通安全、旅行安全、厄除けなどの神徳が信仰されている。
八衢比古は、御杖神社(奈良県宇陀郡御杖村)、交通神社(京都府京都市)などで、八衢比売や久那斗とともに祀られている。
エピソード
平安時代の法令や祭祀をまとめた『延喜式』には、道饗祭《みちあえのまつり》で読み上げる祝詞が収められている。道饗祭は、都へ通じる道で境界の神々を祀り、外から侵入しようとする疫病や悪霊を防ぐ祭りである。
祝詞では、八衢比古、八衢比売、岐の神《くなとのかみ・久那斗》の名を挙げ、根の国や底の国から荒び来るものが都の内へ入らないよう祈願する。道を通って来る災いを神々が迎え、都へ近づく前に押し返すことを願ったのである。
古代の道は、人や物資を運び、遠く離れた土地を結ぶ重要な場所だった。その一方で、疫病、敵、悪霊なども道を通ってやって来ると考えられた。特に複数の道が交わる辻や都の入口は、内と外が接する危険な境界である。八衢比古は、そうした場所に立ち、外から来るものを見定める男神として祀られた。
道饗祭に祀られた三柱は、後世に塞三柱神と呼ばれることがある。ただし、「塞三柱神」という一柱の神が古典に登場するのではなく、道と境界を守る八衢比古、八衢比売、久那斗を一組として表した名称である。八衢比古は、災いが起きた後に鎮めるのではなく、境界で侵入を防ぐ役割を担う神なのである。
出典・参考:『延喜式』「道饗祭祝詞」、國學院大學デジタルミュージアム「道饗祭」
八衢比古の「八衢」は、多くの道が分かれ、交わる場所を意味する。「八」は必ずしも八本だけを表すのではなく、数が多いことを示し、「衢」は分かれ道や辻を表す。八衢比古は、多くの道が集まる場所を守る男神という意味の神名である。
八衢比古は、女神の八衢比売と常に対になるように祀られる。道饗祭祝詞にも二柱の名が並んでいるが、夫婦、兄妹、親子といった具体的な関係は記されていない。古代の神々には男女一対で一つの働きを担う例があり、八衢比古と八衢比売も、男女の力によって道の内外を守る一対の神と考えられている。
分かれ道は、進む方向を選ばなければならない場所でもある。正しい道を選べば目的地へ到着できるが、誤れば危険な場所へ迷い込む。このため、辻や峠の神には悪霊を防ぐだけでなく、旅人を正しい方向へ導き、道中の安全を守る役割も求められた。
八衢比古は神話の中で活躍する物語を持たず、系譜も伝えられていない。しかし、その神名と道饗祭における役割から、古代の人々が道の分岐点を重要な境界と考えていたことが分かる。現在の交通安全という神徳も、道を守り、進む先の無事を願った古代の信仰を受け継ぐものである。
出典・参考:『延喜式』「道饗祭祝詞」、國學院大學デジタルミュージアム「八衢」「道饗祭」
道饗祭で都の入口を守った八衢比古の信仰は、後世になると、村や集落の境界を守る塞の神や道祖神の信仰と結びついた。村の入口、街道の分岐点、峠、橋のたもとなどに石碑や石像を置き、疫病や悪霊が内側へ入らないよう願う信仰である。
『古事記』には、イザナギが禊を行うために身につけていた褌を脱いだ際に成った道俣神が登場する。道俣神も道の分かれ目を表す神と考えられるが、八衢比古とは成立した文献も誕生の伝承も異なる。また、天孫降臨で道案内をしたサルタヒコも、道を守り導く神格から道祖神と結びつけられた。
仏教が広がると、街道や村境に祀られた地蔵菩薩が道祖神と同じ役割を担う例も生まれた。このように、日本各地の境界では八衢の神、久那斗、サルタヒコ、地蔵菩薩など、由来の異なる神仏が地域ごとに重なって祀られてきた。
八衢比古をこれらの神々と完全に同一とすることはできない。しかし、外から来る災いを防ぎ、旅人を守るという共通の願いによって信仰が結びついた。宮廷の道饗祭で祀られた八衢比古が、村境や辻を守る身近な神へと受け継がれたのである。
出典・参考:『古事記』、『延喜式』「道饗祭祝詞」、仙台市公式サイト「道祖神」
奈良県宇陀郡御杖村の御杖神社では、久那斗神を主祭神とし、八衢比古と八衢比売を配祀している。三柱はいずれも道や境界を守る神であり、古代の道饗祭に祀られた組み合わせを現在に伝えている。
御杖神社には、倭姫命が天照大神を祀る場所を求めて各地を巡った際、候補地を示すために杖を置いたという伝承がある。御杖という村名や神社名も、この御杖の伝承に由来するとされる。杖は旅人を支えるとともに、道や土地の境界を示す標にもなる。道の神である八衢比古が当地で祀られる背景には、倭姫命の旅と杖にまつわる信仰がある。
京都府京都市の須賀神社境内にある交通神社でも、八衢比古、八衢比売、久那斗神の三柱を祀っている。交通神社は自動車交通の発達を背景として昭和三十九年(1964)に創建され、車や旅行の安全を願う人々から信仰を集めている。
古代には都へ疫病や悪霊が入ることを防いだ八衢比古が、現代では道路上の事故や災難を防ぐ交通安全の神となった。人々が道を使って移動する限り、その入口や分岐点を守る八衢比古の役割は失われず、時代に合わせて受け継がれている。
出典・参考:御杖村観光協会「御杖神社」、京都市観光協会「須賀神社・交通神社」
出典文献
延喜式
神格
ご神徳
別称・異称
やちまたひこ
延喜式
八衡彦命はちまたひこのみこと
その他
八衢彦命やちまたひこのみこと
その他
八衢毘古命はちまたびこのみこと
その他
同一とされる神様
祀られている主な神社
芦屋神社
(兵庫県芦屋市東芦屋町20−3)
御杖神社
(奈良県御杖村神末1020)
高乃宮神社
(広島県安佐南区長束西一丁目42番1号)
六社神社
(広島県府中市斗升町571番地)
千曳神社
(青森県七戸町字菩提木56)
