有名度
関脇宮地嶽神社
みやじだけじんじゃ
福岡県福津市宮司元町7-1
楼門・拝殿
更新日:2026年10月25日
楼門
参道を進み、石段を上った先に建つ大きな門が楼門です。境内へ入ると最初に目に入る大きな建物のひとつで、その堂々とした姿に圧倒される人も多いのではないでしょうか。正面には「宮地嶽神社」と書かれた大きな扁額が掲げられています。
神社の随身門では、門を守る神である豊石窓神・櫛石窓神を祀ることがありますが、宮地嶽神社の随身像がどの神様を表しているのか、詳しいことは確認できませんでした。楼門をくぐる際には、左右にも目を向けてみてください。

大注連縄が目を引く拝殿
楼門をくぐった正面に建つのが拝殿です。宮地嶽神社の御祭神を拝むための社殿で、その奥に本殿が鎮座しています。入母屋造、銅板葺の堂々とした社殿ですが、やはり最初に目を奪われるのは正面に掲げられた巨大な大注連縄です。直径2.6メートル、長さ11メートル、重さ3トンにもなる大注連縄が拝殿正面を飾り、宮地嶽神社を象徴する風景を作り出しています。

川島は就任後、社務の改革を進めるとともに社殿の造営を計画します。1917年(大正6年)には社殿造営の許可を受け、各地から広く浄財を募りました。これに多くの崇敬者が応じ、1922年(大正11年)から本格的な工事が始まります。
工事は単に古い社殿を建て替えるだけのものではありませんでした。従来の社殿の背後にあった丘陵を削り、その土で谷を埋めて神域を広げるという、大規模な造成工事が行われました。こうして山中に広大な平坦地を造り出し、その上に現在へと続く壮麗な社殿が建てられました。
建築には台湾から取り寄せた材木も使用されました。工事は約7年に及び、造営に投じられた費用は80万円余りに達したと伝えられています。当時としては非常に大規模な造営事業でした。
そして1930年(昭和5年)10月22日、新たな社殿への遷宮鎮座祭が盛大に執り行われました。現在、毎年10月22日に斎行されている「御遷座記念祭」は、この大造営による遷宮を記念する祭典です。
スポンサーリンク
川島澄之助翁像
拝殿の右手側にある禊池のほとりには、宮地嶽神社の大造営を成し遂げた川島澄之助の銅像が建っています。川島は現在の社殿を造営しただけではなく、社司就任後に社務を改革し、宮地嶽神社の発展に大きく尽力した人物です。その功績を後世へ伝えるため、有志によって1933年(昭和8年)3月に銅像が建立されました。

現在では当たり前のように広がっている拝殿周辺の平坦な境内も、川島が進めた大規模な造成によって生まれた場所です。銅像と現在の社殿を合わせて見ると、宮地嶽神社が大正から昭和初期にかけて大きく姿を変えた歴史を感じることができます。
拝殿下の撫で牛
拝殿に向かって左手側の縁の下には、小さな黒い「撫で牛」がひっそりと安置されています。宮地嶽神社には大小さまざまな牛が奉納されていますが、その中でも特に信仰を集めているのがこの撫で牛です。小さく目立たない姿をしていますが、頭上には注連縄が張られ、正面には賽銭箱も置かれています。宮地嶽神社自身も「小っちゃくて目立たない」と紹介するほどですが、その御利益を求めて多くの人が訪れ、日時によっては行列ができることもあります。

大注連縄に目を奪われていると見落としてしまいそうな場所にありますので、拝殿を参拝した後には左手側の縁の下も探してみてください。
御遷座記念祭とツクシ神舞
毎年10月22日には、現在の社殿への遷宮を記念する「御遷座記念祭」が斎行されます。その大きな見どころとなっているのが、拝殿前で奉納される「ツクシ神舞」です。宮地嶽神社では、約1700年前に北部九州に王朝が栄えた頃、さまざまな芸能が行われており、その時代の舞が宮地嶽に伝承されたものと伝えています。宮地嶽神社の本殿から山へ約10分進んだ場所には宮地嶽古墳があり、ツクシ舞はかつてこの場所で舞われていたとも伝えられています。
長い年月を経て受け継がれてきたツクシ舞は「幻の宮廷舞」とも呼ばれ、能や舞楽の原型ともいわれています。現在の伝承にあたっては、宮地嶽神社の宮司がツクシ舞の伝承者から直接指導を受けています。
神職が奉納する舞を「ツクシ神舞」、女性による舞を「八乙女舞」と呼び、演目には「唐衣」「榊葉」「笹の露」「扇」「千鳥」「橘」「浮神」などがあります。
現在の社殿が完成し、1930年(昭和5年)10月22日に遷宮鎮座祭が行われたことを記念して、年に一度、拝殿前で奉納されています。普段の参拝では見ることのできない宮地嶽神社に伝わる古い舞を、現在の社殿が誕生した記念日に見ることができる特別な祭典です。
この記事を0人の方がいいねといっています
スポンサーリンク
