国松・松の丸の供養塔 | 豊国神社 - 神社ファン

有名度

関脇

豊国神社

とよくにじんじゃ

京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町530

😞 🙁 😐 🙂 😄

国松・松の丸の供養塔

更新日:2026年7月13日

豊臣家の悲劇を伝える供養塔

阿弥陀ヶ峰へ続く豊国廟参道の西側の麓には、豊臣秀吉の孫・豊臣国松と、秀吉の側室・松の丸(寿芳院)の供養塔が静かに並んで建っています。豊臣家最後の悲劇を今に伝える史跡として、多くの歴史ファンが訪れる場所です。
豊臣国松は、豊臣秀頼と側室・伊茶局との間に生まれた男子で、豊臣秀吉の孫にあたります。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、乳母とともに落ち延びる途中で徳川方に捕らえられ、京都市中を引き回された後、六条河原で処刑されました。国松は満8歳という幼さで、その生涯を閉じたと伝えられています。
隣に眠る松の丸は通称で、実名は京極龍子です。京極家の出身で、淀殿の従姉妹にあたり、豊臣秀吉の側室として知られています。伏見城の松の丸に住んでいたことから「松の丸殿」と呼ばれ、美貌と聡明さで知られた人物でした。秀吉の死後は出家し、「寿芳院」と号して余生を送りました。
国松の供養塔Corpse Reviver(Wikipedia CC 表示-継承 3.0)
この二人の供養塔が並んで建てられているのには理由があります。豊臣家滅亡後、六条河原で処刑された国松の遺骸を引き取り、京都・誓願寺へ手厚く葬ったのが松の丸でした。豊臣家最後の血筋を弔った松の丸の行動は、豊臣家への深い情愛を伝える出来事として語り継がれています。
もともと二人の墓は誓願寺にありましたが、1911年(明治44年)、豊臣家ゆかりの地である豊国廟参道の麓へ移されました。供養塔のそばには移設の経緯を記した案内板も設けられており、その歴史を知ることができます。
豊国廟へ向かう多くの参拝者は、そのまま石段を登ってしまいますが、参道の麓に静かに佇むこの供養塔にもぜひ足を止めてみてください。豊臣秀吉の栄華だけでなく、豊臣家最後の悲劇と、それを支えた人々の想いを今に伝える、歴史的にも大変意義深い史跡です。

この記事を0人の方がいいねといっています



スポンサーリンク

豊国神社の人気記事