二十五丁橋・松御前之碑・眼鏡之碑 | 熱田神宮 - 神社ファン

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😞 🙁 😐 🙂 😄

二十五丁橋・松御前之碑・眼鏡之碑

更新日:2026年9月1日

名古屋最古の石橋「二十五丁橋」

佐久間燈籠と徹社の間には、25枚の花崗岩の板石を組んだ反り橋「二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)」があります。名古屋に現存する最古の石橋といわれています。
二十五丁橋の造られた年代は明らかではありませんが、室町時代の熱田神宮境内を描いた「享禄古図」にはすでに橋が描かれています。ただし、この頃はまだ木造の橋だったと考えられ、江戸時代前期頃に現在につながる石橋へと造り替えられました。
古くは「下馬橋」とも呼ばれ、本宮を囲む堀に架けられていました。昭和の境内整備によって一度解体されましたが、昭和30年(1955)に旧材を使用して現在地に復元されています。
二十五丁目橋
以前は柵が設けられ渡ることができませんでしたが、令和の造営事業によって再び渡れるようになりました。現在は橋を傷めないための仮設通路が設けられており、緩やかに反った石橋の上を実際に歩いて渡ることができます。
橋のたもとには「名古屋甚句」の歌碑もあります。
二十五丁目橋 横
ア~宮の熱田の二十五丁橋でエ~
ア~西行法師が腰を掛け
東西南北見渡して
これ程涼しいこの宮を
たれが熱田とヨーホホ
ア~アア名を付けたエ~
トコドッコイ ドッコイショ
名古屋甚句には、西行法師が二十五丁橋に腰を掛け、東西南北を見渡して「これほど涼しいこの宮を、誰が熱田と名を付けた」と語ったという伝承が歌われています。
西行法師が実際にこの橋でこの言葉を残したかどうかは伝承の域を出ませんが、二十五丁橋は古くから熱田を代表する名所として親しまれてきました。
名古屋甚句
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源頼朝の曾祖母を祀る「松御前之碑」

二十五丁橋の近くには「松御前之碑」と歌碑が建っています。
松御前は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の曾祖母にあたる女性です。熱田大宮司家の娘で、三河国野田の藤原氏千秋家に嫁ぎ、その子孫から源頼朝の母となる由良御前が生まれました。
松御前之碑の隣には、
「桜花 ちりなむ後の かたみには 松にかかれる 藤をたのまん」
と刻まれた歌碑もあります。
この歌は、熱田大宮司職が尾張氏から藤原氏へと受け継がれていくことにまつわる歌として伝えられています。「桜」を尾張氏、「藤」を藤原氏に重ねたものとされ、熱田大宮司家の歴史を伝える歌でもあります。
松御前之碑と歌碑は、もとは愛知県新城市豊島に建てられていましたが、令和3年(2021)に熱田神宮へ献納され、二十五丁橋のたもとへ移されました。
松御前之碑

遮光器土偶が立つ「眼鏡之碑」

二十五丁橋の近くでもう一つ目を引くのが、石柱の上に大きな土偶が立つ「眼鏡之碑」です。
昭和57年(1982)、名古屋眼鏡商業協同組合の創立60周年を記念して建立されました。
石柱の上に立つのは、青森県から出土した縄文時代の遮光器土偶をもとにした像です。大きな目の部分が眼鏡のように見えることから「縄文時代のめがね(遮光器)」として碑の題材となり、彫刻家の安藤菊男によって復元製作されました。
眼鏡之碑
碑文には、眼鏡業に携わる人々が、八尺瓊勾玉などの玉造りに関わる玉祖命を祖神として崇敬してきたことや、眼鏡の功徳への感謝が記されています。
また、眼鏡之碑が建立された昭和57年(1982)以降、この碑の前では眼鏡への感謝を捧げる「眼鏡感謝祭」も行われています。
歴史ある二十五丁橋の周辺には、源頼朝の家系と熱田大宮司家の歴史を伝える松御前之碑、そして現代の眼鏡業界によって建立された眼鏡之碑が並び、時代も由来もまったく異なる石造物を見ることができます。

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