有名度
関脇静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじゃ
静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102-1
静岡浅間神社廿日会祭の稚児舞
更新日:2026年9月21日
祭の中心となる稚児舞楽
静岡浅間神社では、毎年4月1日から5日にかけて例大祭「廿日会祭(はつかえさい)」が執り行われます。静岡に春を告げる祭として長く親しまれてきた祭礼で、そのクライマックスを飾るのが4月5日に奉納される「稚児舞楽」です。稚児舞楽は、もともと安倍川の対岸、現在の静岡市葵区建穂にあった建穂寺(たきょうじ)に伝承されていた舞楽です。建穂寺は現在は廃寺となっていますが、かつては建穂寺の稚児たちが静岡浅間神社まで出向き、舞楽を奉納していました。
その歴史は少なくとも戦国時代までさかのぼります。公家・山科言継の日記『言継卿記』には、弘治3年(1557)2月22日に浅間神社で「児之舞」を見物した記録が残されています。今川氏が駿河を治めていた時代には、すでに現在につながる稚児舞楽が行われていたことがわかります。
今川氏の衰退とともに稚児舞楽も一時衰えましたが、その後、徳川家康によって復興されたと伝えられています。家康が建穂寺で稚児舞を見て気に入り、浅間神社の祭礼で天下泰平・五穀豊穣を祈願して奉納させたという伝承も残されています。
徳川幕府の時代になると稚児舞楽は手厚い庇護を受けました。舞を奉納する稚児には幕臣の子弟が選ばれ、建穂寺から浅間神社へ向かう行列には与力や同心などの警護が付き、10万石の大名行列にも相当するとされる格式が与えられていました。
稚児を迎える駿府の町衆も山車や屋台を繰り出し、木遣りやお囃子、地踊りなどを伴って浅間神社へ向かいました。これが現在まで受け継がれる「お踟(おねり)」の原点とされています。
稚児は桜または山吹の花を挿した天冠をかぶり、額には白粉で月形を描きます。現在も幕府から賜ったと伝わる舞楽装束を身につけて舞が奉納されており、徳川家との深いつながりを現在に伝えています。
さらに江戸時代には、舞が終わると「花納めの儀」が行われました。稚児の天冠を飾っていた桜や山吹の花を飛脚によって江戸城へ送り、稚児舞楽が無事終了したことを幕府へ報告したと伝えられています。
明治維新によって幕府の庇護を失い、建穂寺も廃寺となったことから稚児舞楽は一時途絶えましたが、1894(明治27)年に復興されました。その後も地域の人々によって受け継がれ、2022(令和4)年3月23日には「静岡浅間神社廿日会祭の稚児舞楽」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

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伝統を色濃く受け継ぐ5つの舞
現在、稚児を務めるのは小学生の男子4人です。4月5日の朝、着付けと化粧を済ませた稚児たちは建穂神社に参拝した後、それぞれ輿に乗って市内を進みます。神社へ到着すると、お踟による歌や踊りなどを上覧し、その後、静岡浅間神社の舞殿で稚児舞楽を奉納します。現在伝承されている演目は「振鉾(えんぶ)」「納曽利(なそり)」「安摩(あま)・二の舞」「還城楽(げんじょうらく)」「太平楽(たいへいらく)」の5番です。
「振鉾」は、鉾を手にして舞い、舞台を清める意味を持つ舞です。
「納曽利」は、本来は二人で舞うことの多い舞楽ですが、静岡浅間神社では稚児がひとりで舞います。
「安摩・二の舞」は、廿日会祭の稚児舞楽の中でも特にユニークな演目です。まず2人の稚児が「安摩」を優雅に舞い、その後に老人の男女を表した面をつけた舞人が登場します。
この後半部分が「二の舞」で、静岡浅間神社では「ズジャンコ舞」とも呼ばれています。ジジとババが稚児の舞を真似するように滑稽に舞い、稚児を笑わせようとします。しかし、稚児が笑ってしまうとその年は不作になるという言い伝えがあります。
現在でも、この二の舞だけは稚児舞楽発祥の地である建穂の人々が担当しています。建穂寺が失われた現在も、舞の一部を建穂の人々が受け継いでいるところは、この稚児舞楽の歴史を感じられる大きな見どころです。
「還城楽」は、蛇を好んで食べる西域の人物が蛇を見つけ、喜ぶ様子を表現した舞楽です。舞台には蛇の造り物が置かれ、その周囲で舞が繰り広げられます。
最後の「太平楽」は、武人の姿で舞う勇壮な演目です。鉾や太刀を用いた所作があり、それまでの優雅な舞とは異なる雰囲気を楽しむことができます。
戦国時代の1557年にはすでに浅間神社で舞われていた記録があり、徳川幕府の庇護、一時的な断絶と明治時代の復興を経て、現在まで受け継がれてきた稚児舞楽。廿日会祭を訪れるなら、山車やお踟とともに、舞殿で奉納される5つの舞にもぜひ注目してみてください。

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