万治の石仏 | 諏訪大社 下社春宮 - 神社ファン

有名度

大関

諏訪大社 下社春宮

すわたいしゃ しもしゃはるみや

長野県諏訪郡下諏訪町193

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万治の石仏

更新日:2026年10月3日

デザインが独特な石仏

春春宮から砥川を渡って徒歩5分ほど、田んぼに囲まれた場所に「万治の石仏」が鎮座しています。巨大な自然石の上に小さな頭が乗っているという、大変アンバランスな姿が特徴の石仏です。
万治の石仏の顔
万治の石仏を全国的に有名にした人物のひとりが芸術家の岡本太郎です。1974年に下諏訪を訪れて石仏と対面し、カメラを持つ手を震わせながら「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」と絶賛したと伝えられています。作家の新田次郎も石仏に感嘆し、講演や雑誌などで紹介されたことで全国に知られるようになりました。
石仏は安山岩の巨大な自然石を胴体としており、高さ約2.6メートル、幅約3.8メートル、奥行き約3.7メートル、胴回りは約11.85メートルあります。その上に顔の長さ約65センチの仏頭が乗せられており、巨大な胴体と小さな頭のアンバランスな姿が独特の印象を与えています。
石には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と刻まれています。万治3年(1660)の銘があることから、現在では「万治の石仏」と呼ばれています。1982年(昭和57年)3月26日には下諏訪町の有形文化財に指定されました。
ただし、古くから「万治の石仏」と呼ばれていたわけではありません。延宝3年の検地帳や江戸時代の絵図には「えぼし石」、文化2年(1805)の記録には「みたらしの石仏」と記されています。地域の人々からは「あみだ様」と呼ばれ、長く信仰されてきました。

石から血が流れ出したという伝説

万治の石仏には、その誕生にまつわる不思議な伝説が残されています。
江戸時代前期、諏訪高島藩主・諏訪忠晴が諏訪大社下社春宮へ石の大鳥居を寄進しようとした際、石工がこの場所にあった大きな石を鳥居の材料にしようと鑿を入れました。すると、石から血が流れ出したといいます。
驚いた石工は神の祟りを恐れ、この石を使用することを中止しました。その夜、石工の夢枕に「茅野市の上原山に良い石材がある」とのお告げがあり、上原山の石を使って鳥居を造ることになりました。そして不思議な出来事が起きた巨石には阿弥陀如来を祀り、鳥居の完成を祈願したと伝えられています。
石には現在も鑿の跡が残っており、鳥居の石材にしようとした際につけられたものと伝えられています。万治の石仏を訪れた際には、その跡も探してみてください。
万治の石仏の横顔
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お参り方法について

万治の石仏は、その名にちなみ「万(よろず)のことが治まる」とされ、物事を丸く治めて願いを聞いてくれる石仏として親しまれています。また、現在は独特なお参り方法が紹介されています。
まず石仏の正面で一礼し、手を合わせながら「よろずおさまりますように」と心で念じます。その後、願い事を心の中で唱えながら石仏の周囲を時計回りに3周します。最後に正面へ戻り、「よろずおさめました」と唱えてから一礼するのが参拝の流れです。
巨大な石仏の周囲を歩くことで、正面から見るだけでは分からない自然石の大きさや独特な形をさまざまな角度から見ることもできます。
万治の石仏の全体

胸に刻まれた謎の文様

万治の石仏を訪れたら、その独特な姿だけでなく、胴体に刻まれた文様にも注目してみてください。
胸には太陽・雷・雲・磐座・月などの文様が刻まれ、右端には逆卍があります。これらは大宇宙のすべてを表したものとされ、大日如来を教主とする密教の曼荼羅を表現したものと考えられています。
諏訪大社下社春宮 万治の石仏の胸の模様
万治の石仏は浄土宗の阿弥陀如来が結ぶ弥陀定印を結んでいる一方、大日如来に関係する曼荼羅の世界も表現されています。これは阿弥陀如来と大日如来を一体の石仏に共存させる「同体異仏」の信仰によるもので、弾誓上人(1551~1613)を祖とする浄土宗の一派との関係が指摘されています。
石に刻まれた願主の「明誉浄光」「心誉慶春」は浄土宗に帰依した人の法名で、二人は兄弟または師弟のつながりを持っていたと考えられています。下諏訪町では、この二人によって万治の石仏が造立されたのではないかと推定しています。
一見すると巨大な自然石に小さな頭を乗せたユーモラスな石仏ですが、石に残された銘や文様まで見ていくと、江戸時代初期の信仰を現在に伝える貴重な石仏であることが分かります。

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