随神門 | 戸隠神社 奥社 - 神社ファン

有名度

大関

戸隠神社 奥社

とがくしじんじゃ おくしゃ

長野県長野市戸隠3690

😞 🙁 😐 🙂 😄

随神門

更新日:2026年10月7日

歴史を感じさせる随神門

奥社および九頭龍社へ続く約2kmの参道、そのほぼ中間地点に建っているのが随神門です。
随身門 正面
宝永7年(1710)に建立されたと伝わる、戸隠神社に現存する建造物の中では最古の建物です。正面の本柱4本と後方の控柱8本からなる三間一戸の八脚門で、屋根は入母屋造の茅葺となっています。
随身門 裏側
随神門の大きな特徴が、周囲の森と一体になった茅葺屋根です。長い年月を経て苔に覆われた屋根と朱塗りの門が、周囲の深い緑の中に浮かび上がります。随神門をくぐった先からは樹齢400年を超える杉並木が始まり、奥社参道の景観が大きく変わる場所でもあります。
随神門は、神域に邪気や邪悪なものが侵入するのを防ぐ門です。左右には警護を司る随神像が安置されていますので、門を通る際にはぜひこちらの像にも注目してみてください。
随身門 扁額
向かって左側の像は櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、右側の像は豊石窓神(とよいわまどのかみ)と呼ばれています。
櫛石窓神と豊石窓神は門を守護する神です。『古事記』では天石門別神(あめのいわとわけのかみ)の別名として櫛石窓神・豊石窓神の名が記され、同じ神の別名という扱いになっています。一方、『古語拾遺』や『延喜式』では櫛石窓神と豊石窓神をそれぞれ別の神として扱っています。
『古語拾遺』では、天岩戸から出た天照大神が新しい宮殿へ移った際、櫛石窓神と豊石窓神がその門を守護したとされています。また『延喜式』では、皇居の四方の門を守る神として両神がまつられていました。
随身門 随身像
天孫降臨の際には、奥社の天手力雄命、中社の天八意思兼命、火之御子社の天鈿女命とともに、天石門別神も邇々芸命に従って天降ったことが『古事記』に記されています。戸隠神社にまつられる神々とともに天孫降臨に登場する、戸隠とも縁の深い門の神です。
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神仏習合時代のなごりである「仁王像」

戸隠神社は神仏習合の時代、戸隠山顕光寺として全国から信仰を集めた霊場でした。現在の随神門も当時は「仁王門」と呼ばれ、門の左右には随神像ではなく仁王像が安置されていました。
明治時代に神仏分離が行われると仁王像は戸隠から移され、現在は長野市東之門町にある寛慶寺の本堂に安置されています。
寛慶寺は栗田氏によって開かれた寺院です。栗田氏は善光寺の別当を務めるとともに、平安時代から戸隠山の別当として戸隠とも深い関係を持っていました。こうした縁のある寺に、奥院仁王門に安置されていた仁王像が現在まで残されています。
寛慶寺TTTNIS (Wikipedia パブリック・ドメイン)
仁王像は阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の二体からなり、ともに檜材から彫り出された一木造です。像高はともに約280cmに及び、髪を頭上でまとめた単髻、彫刻によって眼を表現する彫眼、肉身に施された朱彩などを特徴としています。
像には明応7年(1498)5月8日の銘があり、室町時代に制作されたことが分かっています。また宝永4年(1707)と安永3年(1774)に修理された記録も残されており、長期間にわたって戸隠山の仁王門を守ってきたことが分かります。
昭和44年(1969)9月10日には「木造金剛力士像」として長野市の有形文化財に指定されました。
現在の随神門には随神像が安置されていますが、かつてこの場所を守っていた仁王像も寛慶寺に現存しています。現在の随神門と旧仁王像をあわせて知ることで、戸隠が神仏習合の霊場「戸隠山顕光寺」として栄えた時代の姿をより深く知ることができます。

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