奥田神社 長野県 - 神社ファン

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前頭

奥田神社

おくだじんじゃ

長野県須坂市大字須坂757

長野県須坂市大字須坂757

かんたんご利益

御祭神

神社系統

この神社の主な系統は

「不明(1柱)」

です。
※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。

由緒・歴史 | 特徴

奥田神社は長野県須坂市に鎮座する神社。御祭神は直重大明神、直虎大明神の2柱をまつる。
由緒をさかのぼると、初代須坂藩主堀直重は、慶長3年に14歳で徳川秀忠に初めて出仕し、慶長5年の上杉景勝討伐に従軍した功により下総国香取郡矢作に2000石を与えられた。のちに信州高井郡内での加増により所領は8000石となり、大坂冬の陣・元和元年の夏の陣での殊勲によってさらに加増を受け、信州須坂13カ村および下総矢作あわせて1万2050石余を領する大名となる。元和元年には領内初巡視と陣屋築造のため須坂に入部し、普願寺に仮陣屋を構えて藩政の基礎を築いたが、元和3年に下総国で没し、その墓所は現在の千葉県香取市・新福寺にあると伝えられている。一方、13代藩主堀直虎は文久元年に26歳で家督を継いだ。当時の須坂藩は河野・野口ら権臣の専横により領内が疲弊していたが、直虎は就封にあたってこれら40余名を追放するという大鉈を振るい、一年分の年貢免除や藩からの貸付金の棒引きなどを行って領民救済を図るなど、積極的な藩政改革を進めた。さらに早くから洋学と洋式兵制の必要性を悟り、藩の軍備を従来の甲冑・弓槍から銃器・洋装へと転換し、英式の軍制を採用して西洋式の近代軍備を整えたとされる。慶応3年にはわずか30代前半で江戸幕府の若年寄兼外国奉行という重職に抜擢され、幕末動乱期の外交と政局のただ中に立たされた。尊王攘夷・開国の議論が渦巻くなかで直虎は尊皇の立場から徳川慶喜に恭順を勧めたが容れられず、慶応4年1月、江戸城内で自刃してその志を示したと伝えられる。こうした治教と殉節を偲んだ旧藩士らが、文久から慶応年間にわたる徳政を称えて明治13年11月、かつての須坂藩館跡の中心部に奥田神社を創建し、藩祖直重と直虎を一社に祀ったのが現在の社のはじまりである。
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出典
公式サイト
https://ja-jp.facebook.com/jakufu.okuda/
長野県神社庁
https://www.nagano-jinjacho.jp/