金崎宮 - 神社ファン

有名度

前頭上位

金崎宮

かねがさきぐう

福井県敦賀市金ヶ崎町1-4

😞 🙁 😐 🙂 😄

福井県敦賀市金ヶ崎町1-4

鳥居と拝殿

かんたんご利益

  • 恋愛
  • 学業
  • 金運
  • 厄除
金崎宮には

「恋愛系(有名)」「学業・技芸系」「金運系」「厄除・開運系」

のご利益があります。
※かんたんご利益はご利益をジャンル毎に分けわかりやすく表示したものです。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。

ご利益

縁結び 恋愛成就 難関突破 開運招福 金運招福

御祭神

尊良親王 たかながしんのう
恒良親王 つねながしんのう

神社系統

この神社の主な系統は

「不明(2柱)」

です。
※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。

由緒・歴史 | 特徴

金崎宮は福井県敦賀市に鎮座する神社。御祭神は尊良親王、恒良親王の2柱をまつる。
社格は旧官幣中社、現在は別表神社。
延元元年(1336)、九州から東上した足利尊氏の軍勢に対し、後醍醐天皇方は各地で戦いを続けていた。同年5月、楠木正成が湊川の戦いで戦死すると、後醍醐天皇は比叡山へ移った。その後、京都へ還幸することとなった後醍醐天皇は、新田義貞に北陸道の鎮撫と官軍の再興を命じた。新田義貞は尊良親王と恒良親王を奉じて北陸へ向かい、湖北の塩津を経て敦賀に入った。
敦賀では氣比神宮の大宮司・氣比氏治らが一行を迎え、尊良親王、恒良親王、新田義貞らは金ヶ崎城を拠点とした。やがて足利方の軍勢が城を包囲し、籠城戦が始まった。翌延元2年(1337)、長期にわたる攻防の末に金ヶ崎城は落城し、尊良親王は新田義貞の子・新田義顕らとともに自害した。恒良親王は城を脱出したものの捕らえられ、その後に没した。
元亀元年(1570)には、織田信長による越前の朝倉氏攻めで金ヶ崎が再び戦場となった。信長が朝倉氏を攻める途中、浅井長政が信長方から離反したため、信長は越前から撤退した。この際、木下藤吉郎らが殿を務めた戦いは、後に「金ヶ崎の退き口」と呼ばれた。
明治23年(1890)9月12日、尊良親王を祭神とする金崎宮の創立が許可され、社号を金崎宮と定めて官幣中社に列格した。社地には尊良親王や恒良親王らが籠城した金ヶ崎城跡が選ばれた。明治25年(1892)11月17日には恒良親王が合祀され、両親王を祭神とする現在の形となった。
境内の摂社・絹掛神社は明治30年(1897)に創建され、新田義顕、氣比氏治をはじめ、金ヶ崎城の戦いで尊良親王とともに殉じた将士らを祀っている。金ヶ崎一帯には約400本のソメイヨシノが植えられ、春には境内から城跡にかけて桜が咲く。
桜の開花期には花換祭が行われる。明治40年代頃、金崎宮を訪れた男女が桜の小枝を交換して思いを伝えた風習が広まり、現在も「花換えましょ」と声を掛けながら桜の小枝を交換する行事が続いている。
10月20日には御船遊管絃祭が斎行される。延元元年(1336)10月20日、尊良親王と恒良親王らが敦賀湾に船を浮かべ、管絃を奏しながら紅葉と月を賞したという故事に基づく祭事である。現在は神輿を船に乗せて敦賀港を巡り、雅楽の演奏や白拍子姿の舞女による舞が奉納される。
  • 別表神社
  • 官幣中社
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神社詳細

公式URL

摂末社・境内社

摂社 絹掛神社
藤原行房卿
新田義顕卿
気比氏治命
気比斎晴命
瓜生保命
瓜生義鑑命
里見時成命
里見義氏命
由良具滋命
長浜顕寛命
武田与一命
末社 朝倉神社
朝倉氏六代と一子の御霊
境内社 愛宕神社
祭神不明

例祭

花換まつり 4月1日~15日
例祭 5月6日
御船遊管絃祭 10月20日

文化財

金ケ崎経塚出土品
敦賀市 指定文化財
考古資料 昭和34年10月5日指定

建築

情報募集

神紋

情報募集

出典
公式サイト
https://kanegasakigu.com/
額賀市
https://www.city.tsuruga.lg.jp/smph/sightseeing/culture/bunkazai_ichiran/bunkazai_ichiran.html
福井県神社庁
https://www.jinja-fukui.jp/
[書籍]ご利益めぐり全国神社誌
巖谷小波・神社神徳研究会、展望社、1997年