有名度
前頭總社
そうしゃ
石川県七尾市古府町キ22
石川県七尾市古府町キ22

かんたんご利益
御祭神
能登国式内四十三座神 のとのくにしきないよんじゅうさんざしん
合祀
健御名方神 たけみなかたのかみ
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(1柱)」
です。他に 「諏訪系」
も考えられます。
※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
總社は石川県七尾市に鎮座する神社。御祭神は能登国式内四十三座神、健御名方神をまつる。
社格は旧村社。
能登國総社の創立は、社伝によれば崇神天皇の御代とされる。大穴持命が能登国を巡幸した際、当地で神恩を仰ぎ、座した石を神体として祀り、社殿を建立したのが始まりと伝える。これが「節当神社」と呼ばれたものとされる。その後、平安時代末期から中期にかけて、当時の国司が領国内の複数の宮社をひとまとめにして勧請し、参拝の便をはかるために「総社」という制度がとられた。能登國総社もその流れを汲み、当時能登国にあった式内社43座の神を一堂に勧請し、国府近くに集めた形で再建されたとされる。具体的には、天養とされる時代(社伝では円融天皇期)に、当時の国司であった源順(みなもとの したごう)が能登守として下向した際に再建を行ったと伝わる。これにより、能登国内の延喜式に記された 43座の神々を勧請し、奉幣寄進がなされたことで、能登国の「総社」と称されるようになった。その後、戦国時代から江戸時代にかけて、地元の守護大名である畠山泰国らにより国守守護の神社として尊敬され、歳時奉幣が行われるなど、地域の産土神としての役割を担ってきた。明治に入り近代社格制度のなかで村社扱いとなり、さらに明治41年(1908年)に神饌幣帛料供進神社に指定された。
能登國総社の本殿は、現在は覆屋の中に納められた一間社流造・柿葺の小規模な社殿である。建立年代は寛永14年(1637年)であり、さらに延宝2年(1674年)に南向きに建て替えられたことが棟札などから判明している。この本殿を含む社殿一帯は、七尾市の有形文化財に指定されている。
社格は旧村社。
能登國総社の創立は、社伝によれば崇神天皇の御代とされる。大穴持命が能登国を巡幸した際、当地で神恩を仰ぎ、座した石を神体として祀り、社殿を建立したのが始まりと伝える。これが「節当神社」と呼ばれたものとされる。その後、平安時代末期から中期にかけて、当時の国司が領国内の複数の宮社をひとまとめにして勧請し、参拝の便をはかるために「総社」という制度がとられた。能登國総社もその流れを汲み、当時能登国にあった式内社43座の神を一堂に勧請し、国府近くに集めた形で再建されたとされる。具体的には、天養とされる時代(社伝では円融天皇期)に、当時の国司であった源順(みなもとの したごう)が能登守として下向した際に再建を行ったと伝わる。これにより、能登国内の延喜式に記された 43座の神々を勧請し、奉幣寄進がなされたことで、能登国の「総社」と称されるようになった。その後、戦国時代から江戸時代にかけて、地元の守護大名である畠山泰国らにより国守守護の神社として尊敬され、歳時奉幣が行われるなど、地域の産土神としての役割を担ってきた。明治に入り近代社格制度のなかで村社扱いとなり、さらに明治41年(1908年)に神饌幣帛料供進神社に指定された。
能登國総社の本殿は、現在は覆屋の中に納められた一間社流造・柿葺の小規模な社殿である。建立年代は寛永14年(1637年)であり、さらに延宝2年(1674年)に南向きに建て替えられたことが棟札などから判明している。この本殿を含む社殿一帯は、七尾市の有形文化財に指定されている。
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神社詳細
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出典
石川県神社庁
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/
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