末社 曽我神社・兄弟杉 | 箱根神社 - 神社ファン

有名度

大関

箱根神社

はこねじんじゃ

神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1

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末社 曽我神社・兄弟杉

更新日:2026年8月27日

曽我兄弟を祀る「曽我神社」

箱根神社の第四鳥居から第五鳥居へ向かう参道沿いには、末社「曽我神社」が鎮座しています。
御祭神は、日本三大仇討の一つとして知られる「曽我兄弟の仇討」を遂げた曽我十郎祐成之命(そがじゅうろうすけなりのみこと)と、弟の曽我五郎時致之命(そがごろうときむねのみこと)です。
曽我兄弟は幼い頃、所領争いによって父・河津三郎祐泰を工藤祐経に討たれました。その後、母が相模国曽我荘の曽我祐信と再婚したため、兄弟は曽我姓を名乗るようになります。
曽我神社 鳥居と社殿
兄の十郎が成長して家督を継いだ一方、弟は「箱王(筥王)」と呼ばれ、父の菩提を弔うため箱根権現別当のもとへ預けられて稚児となりました。しかし父の仇を討ちたいという思いは強く、箱根権現の森の中で杉の木を相手に密かに武術の稽古を重ねたと伝えられています。

箱根権現で祈願し、父の仇討ちへ

文治3年(1187)、源頼朝の箱根権現への二所詣に工藤祐経が随行した際、箱王は父の仇を目の当たりにします。その後、箱根山を下りて元服し、曽我五郎時致と名乗って兄・十郎とともに仇討ちを決意しました。
建久4年(1193)5月、兄弟は仇討ちへ向かう途中で箱根権現に参拝します。箱根権現別当は兄弟の決意を察し、兄の十郎に「微塵丸」、弟の五郎に「薄緑丸」と伝わる宝刀を授けました。
そして5月28日夜、源頼朝が富士の裾野で行っていた巻狩の最中に工藤祐経の館へ討ち入り、ついに父の仇を討ちます。
その後、兄の十郎は戦いの中で討死。五郎は捕らえられ、翌29日に源頼朝の前で仇討ちに至った思いを語った後、斬首されました。
箱根権現では、かつて稚児だった五郎と兄・十郎の霊を慰めるため「勝名荒神祠」として祀ったことが曽我神社の始まりとされています。
曽我兄弟八百年祭の碑
1647年(正保4年)には小田原城主・稲葉正則が石造の本殿を造営し、平成時代には社殿が改修されました。現在は心願成就の守護神として崇敬されています。
御社殿の左手には、仇討ちから800年にあたる1993年(平成5年)に建立された「曽我兄弟八百年祭の碑」もあります。
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5月28日の例祭と「傘焼神事」

曽我神社の例祭は、兄弟が仇討ちの本懐を遂げた5月28日に斎行されます。
例祭では修祓、一拝、献饌、祝詞奏上に続いて「豊栄の舞」が奉奏されます。さらに、曽我兄弟の仇討ちに由来する「傘焼神事」が行われます。
建久4年(1193)5月28日の夜、兄弟は闇の中で傘に火をつけ、それを松明代わりにして工藤祐経の館へ向かったと伝えられています。傘焼神事は、この故事を現在に伝える神事です。
御神前では居合道の奉納演武も行われます。曽我兄弟の武勇と箱根信仰を現在に伝える、曽我神社を代表する祭典です。

五郎が杉を相手に剣を磨いた「兄弟杉」

曽我神社前の参道には、曽我五郎時致ゆかりの「兄弟杉」があります。
五郎がまだ箱王と呼ばれ、箱根権現の稚児として暮らしていた頃、父の仇を討つ思いを胸に秘め、箱根権現の森の奥深くで杉の木を相手に密かに武術の稽古を重ねたと伝えられています。その五郎が稽古に励んだ杉が「兄弟杉」です。
現在は往時の大杉そのものではなく切り株が残されていますが、曽我五郎と箱根権現との深い関係を現在に伝える史跡となっています。
兄弟杉
かつては「剣難除けの杉守」としても信仰されました。
曽我神社だけを見ると、曽我兄弟の仇討ちを記念して兄弟を祀った神社に見えます。しかし、そのすぐ近くに残る兄弟杉まで見ることで、弟の五郎が箱根権現の稚児として過ごし、ここで仇討ちに向けて武術を磨いたという、箱根と曽我兄弟との長い物語が見えてきます。

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