有名度
関脇伊勢山皇大神宮
いせやまこうたいじんぐう
神奈川県横浜市西区宮崎町64
万葉歌碑・横港伊勢山碑・表忠碑・明治十年西征陣亡軍人之碑・彰忠碑
更新日:2025年10月9日
万葉歌碑
万葉歌碑は、昭和63年に犬養孝氏の書によって建立されました。犬養氏は古典文学の研究で知られ、とくに万葉集の解釈・普及に多大な功績を残した人物です。碑には、万葉集巻八に収められている志貴皇子(しきのみこ)の歌が刻まれています。志貴皇子は天智天皇の第七皇子であり、優れた歌人として名高い存在です。
横港伊勢山碑
高さ約3メートルの「横港伊勢山碑(よここういせやまひ)」は、二ノ鳥居の左手に建立されています。明治7年に建てられたこの石碑は、伊勢山皇大神宮の創建経緯を後世に伝える重要な史跡です。題字は太政大臣・三條(藤原)實美(さねとみ)氏によるもので、その筆跡からは明治初期の威厳ある筆致が感じられます。碑文は漢文で記されており、伊勢山皇大神宮が旧暦の明治3年4月に横浜の地へ創建されたこと、その背景や意義が格調高く表現されています。撰文を担当したのは、三條氏と信仰の縁で結ばれていた南総(現在の千葉県南部)出身の重城保敬(じゅうじょうやすたか)氏で、三條氏の依頼を受けて執筆したと伝えられています。
また、碑文中には「伊勢別宮」という表現が見られ、当時の伊勢山皇大神宮がいかに格式高い位置づけで創建されたかを示す貴重な資料となっています。この碑は、明治期の横浜開港の歩みとともに、神社の創建理念を今に伝える歴史的遺産として高く評価されています。

表忠碑
この「彰忠碑(しょうちゅうひ)」は、明治37・38年の日露戦争およびその後の戦役で戦没した軍人を慰霊するために建立された碑です。とくに、日露戦争で命を落とした横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)の出身者を追悼する目的で建てられたと伝えられています。碑の題字は、明治の名将として知られる陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)氏によるもので、厳粛かつ力強い筆致が碑面に刻まれています。また、撰文には当時の国家的な追悼の意が込められており、戦没者の忠魂を讃える格調高い文体でまとめられています。
碑は伊勢山皇大神宮の境内、浦参道近くに位置し、地域住民にとっても長く敬意をもって守られてきた存在です。毎年秋分の日には、野毛地区による戦没者慰霊祭がここで行われ、地域の人々が戦争の記憶と平和への祈りを新たにしています。

明治十年西征陣亡軍人之碑
1877(明治10)年の西南戦争で戦死した神奈川県内出身者131名を慰霊するため、翌1878(明治11)年に建立された碑です。高さは約7.4メートルあり、題字は当時の太政大臣・三條(藤原)實美による揮毫です。碑面には戦死者131名の氏名と出身地が刻まれ、当時の人々の深い哀悼の思いが今も伝わってきます。かつては「招魂社」として知られ、太平洋戦争前までは毎年9月23日に「招魂祭」が行われていました。当時、碑の建つ南参道を上がった場所には「招魂鳥居」と呼ばれる鳥居も建てられていたといわれています。
現在もなお、西南戦争の歴史とその犠牲者たちの記憶を今に伝える重要な碑として、多くの参拝者に親しまれています。
AT@wiki(wiki CC BY-SA 2.0)彰忠碑
日清・日露戦争の戦没者を慰霊する碑です。1907(明治40)年に建立されました。題字は陸軍大臣・大山巌氏によるものです。この記事を0人の方がいいねといっています
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