有名度
小結玉前神社
たまさきじんじゃ
千葉県長生郡一宮町一宮3048番地
玉前神社の石碑
更新日:2026年8月19日
獲錨記念碑
力石の隣に建つ「獲錨記念碑」は、九十九里浜の海に沈んでいた大きな錨を引き揚げたことを記念する石碑です。明治時代末、九十九里浜では砂浜から船を出して地引網漁が行われていました。しかし海中に沈んでいた錨がたびたび漁網を傷つけ、漁師たちを悩ませていました。
その錨が漁師の網に掛かり、ついに海中から引き揚げられます。漁師たちはこれを玉前神社の御加護によるものと喜び、網主11名によって、引き揚げられた錨とともに記念碑が建立されました。

海に近い上総一宮で営まれてきた漁業と、玉前神社への信仰との結びつきを現在に伝える石碑です。
芭蕉の句碑
本殿西側、イヌマキの大樹に囲まれて建つのが「芭蕉の句碑」です。碑の表面中央には、
「たかき屋にの御製の有難を今も猶
叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」
と刻まれています。
「はせを」は松尾芭蕉のことで、元禄元年(1688)の秋冬頃に詠まれた句とされています。仁徳天皇が民家の竈から煙が上がっていないことを見て民の困窮を知り、税を免じたという故事を踏まえ、その聖徳を称えた句です。

碑を建立したのは、上総千町村、現在の茂原市千町の俳人・起名庵金波こと河野五郎兵衛とその一門です。金波は文化元年(1804)に岡山の井出家に生まれ、俳諧を学んで起名庵を創始しました。嘉永5年(1852)に千町村の河野家の養子となり、明治20年(1887)に84歳で没しています。碑の書も金波によるものと伝えられています。
碑には「明治紀元戊辰晩秋」とあり、明治元年(1868)の建立です。平成4年(1992)1月14日には一宮町指定史跡となりました。
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平廣常顕碑
「平廣常顕彰碑」は、平安時代末から鎌倉時代初頭に上総国で大きな勢力を持った武将・上総権介平廣常と、玉前神社との深い関係を伝える石碑です。廣常は上総国を支配した有力武将で、源頼朝が挙兵するとその軍勢に加わり、鎌倉幕府成立の過程で大きな役割を果たしました。しかし頼朝から謀反の疑いをかけられ、その振る舞いも不興を買ったことから、寿永2年(1183)12月に謀殺されました。
ところが廣常は、そのわずか5か月ほど前の同年7月、玉前神社に鎧一領と書状を奉納し、頼朝の心願と東国太平を祈願していました。この事実から、廣常には謀反の意思がなかったことを物語る逸話としても伝えられています。
顕彰碑の表面には、その際に玉前神社へ奉納された祈願文が刻まれ、裏面には廣常の行跡が記されています。廣常が実際に奉納した鎧と文書は、戦国時代末期の戦乱によって焼失しており、現在は残されていません。

獲錨記念碑、芭蕉の句碑、平廣常顕彰碑は、それぞれ性格の異なる石碑です。境内を巡る際には碑文だけでなく、東郷平八郎の篆額、金波一門による多数の句、平廣常の祈願文など、それぞれに残された文字にも注目してみてください。
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