太田道灌手植えの矢竹 | 川越氷川神社 - 神社ファン

有名度

大関

川越氷川神社

かわごえひかわじんじゃ

埼玉県川越市宮下町2-11-3

😞 🙁 😐 🙂 😄

太田道灌手植えの矢竹

更新日:2026年10月21日

太田道灌ゆかりの矢竹

大鳥居をくぐって参道を進み、本殿に向かって右手側には「太田道灌手植えの矢竹」があります。その名の通り、川越城を築いた太田道灌が境内に植えたと伝えられる矢竹です。現在は柵で囲まれて大切に守られており、正面には案内板が立っています。
長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝の命を受けた太田道真・道灌父子は川越城を築きました。川越氷川神社は川越城から見て戌亥(北西)の方角に鎮座しており、道真・道灌父子は当社を篤く崇敬したと伝えられています。
太田道灌手植えの矢竹
なかでも太田道灌は川越氷川神社に和歌を献納し、境内に矢竹を植えたと伝えられています。川越城築城以来、城下の守護神として歴代城主から崇敬された川越氷川神社と、川越の町づくりの礎を築いた太田道灌との関係を現在に伝える史跡です。
道灌が矢竹とともに献納したものとして、

「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」

という和歌も伝えられています。
境内では大鳥居や本殿などに目を奪われがちですが、川越城と川越氷川神社の関係を知るうえでも見逃したくない場所です。
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太田道灌ゆかりの地「川越城」

川越氷川神社から歩いて10分ほどの場所には、太田道真・道灌父子が築いた川越城の跡があります。長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝の命を受けて築城されたと伝えられ、戦国時代には関東の覇権をめぐる争いの舞台となりました。
徳川家康が関東へ入った後は江戸の北を守る重要な城として位置づけられ、江戸時代には幕府の重臣が代々城主となりました。江戸時代前期には「知恵伊豆」として知られる松平信綱によって大規模な拡張が行われ、近世城郭として整備されています。
現在見学できる川越城本丸御殿は、太田道灌が築城した室町時代の建物ではありません。嘉永元年(1848)、川越藩主・松平斉典によって造営されたものです。
川越城MaedaAkihiko(wikipedia CC0)
造営当時の本丸御殿は全16棟、建坪1025坪という大規模なものでした。しかし明治維新後に多くの建物が解体され、現在は玄関と大広間を中心とする部分が残されています。城外へ移築されていた家老詰所も、後に現在地へ移築復原されました。
川越城本丸御殿及び家老詰所は、昭和42年(1967)に埼玉県の有形文化財に指定され、現在は内部を見学することもできます。
川越氷川神社の「太田道灌手植えの矢竹」と川越城は徒歩で巡ることができます。川越城を築いた道真・道灌父子が川越氷川神社を篤く崇敬した歴史を知ってから両方を訪れると、神社と城が別々の観光スポットではなく、城下町川越の歴史の中で深く結びついていたことが分かります。

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