有名度
大関川越氷川神社
かわごえひかわじんじゃ
埼玉県川越市宮下町2-11-3
柿本人麻呂神社
更新日:2026年10月21日
全国でも珍しい柿本人麻呂を祀る神社
山上憶良の歌碑の隣、切妻造の覆屋の中には末社「柿本人麻呂神社」が鎮座しています。御祭神は、飛鳥時代を代表する歌人・柿本人麻呂です。柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人で、後世には「歌聖」と称えられ、三十六歌仙のひとりにも数えられました。そんな柿本人麻呂を神様としてお祀りする、全国でも珍しい神社です。

綾部氏はもともと柿本氏を称し、平安時代に丹波国何鹿郡綾部庄(現在の京都府綾部市)の下司となったことから綾部氏を名乗るようになったと伝えられています。その後各地へ移り住み、一族の一方が近江国を経て、永正2年(1505)頃に川越へ移住しました。
川越では麻織物を家業としたことから屋号を「麻屋」と称し、のちには塩や油、肥料なども扱う豪商へと発展しました。
柿本人麻呂神社は、もともとこの綾部氏の宅地に祀られていた氏神で、のちに川越氷川神社へ遷されたと伝えられています。元禄2年(1689)の川越氷川神社の神系図には、すでに末社の筆頭として記されており、少なくとも江戸時代前期には現在の境内で信仰されていたことが分かります。
もとは八坂神社だった現在の社殿
現在の柿本人麻呂神社の社殿にも、興味深い歴史があります。この建物は最初から柿本人麻呂神社として造られたものではなく、元文4年(1739)に川越の喜多町中で「八坂神社」として建立された社殿です。その後、川越氷川神社の境内へ移築され、何度か境内で場所を移しながら、現在は柿本人麻呂神社の社殿として大切に守られています。
かつて八坂神社だったことを現在に伝えているのが、軒唐破風の下にある蟇股です。
よく見ると、蟇股には「きゅうり」が彫刻されています。

柿本人麻呂を祀る社殿なのに、なぜきゅうりが彫られているのか。その理由をたどると、この社殿がかつて八坂神社だった歴史へとつながります。

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歌道・学問から安産・火防まで
柿本人麻呂は歌人として優れていたことから、歌道・学問の神様として信仰されています。また、柿本人麻呂は古くから「人丸(ひとまる)」とも呼ばれてきました。「人丸」という名を「火止まる」「人産まる」に結びつける信仰が生まれ、火災を防ぐ火防、子供が無事に生まれることを願う安産の神様としても信仰を集めています。
川越氷川神社でも歌道・学問、安産・火防の神様としてお祀りされており、毎年4月18日の「人麻呂忌」には柿本人麻呂神社の例祭が斎行されます。例祭には柿本人麻呂の子孫と伝わる綾部家をはじめ、『万葉集』の愛読者や研究者なども参列し、献歌も行われています。
戦国時代に川越へやってきた一族の氏神が、500年以上を経た現在も川越の地で祀られていることも、この神社の興味深いところです。
山上憶良の歌碑
柿本人麻呂神社の右脇には、同じく『万葉集』を代表する歌人・山上憶良の歌碑があります。刻まれているのは、『万葉集』巻五に収められた「令反惑情歌(惑へる情を反さしむる歌)」です。父母への孝行や妻子への愛情、人としての生き方を説いた歌で、当時の川越氷川神社第19代宮司・山田衛居が『万葉集』を読む中でこの歌に出会い、歌碑にふさわしい歌として選びました。

建立の中心となったのは、川越鍛冶町の文化人・中嶋与十郎でした。与十郎は詩文や書をたしなみ、山田衛居宮司とも親しく交流していた人物です。当初は使い古した筆を供養する「筆塚」を建てる話から始まりましたが、やがて構想が広がり、100名を超える文化人たちの賛同を得て現在の歌碑が建立されました。
碑の表面には中嶋与十郎の隷書、裏面には小川平三郎の楷書が刻まれ、石工・山崎太右衛門が文字を刻みました。題字の「令反惑情歌碑」は、幕末の幕臣で明治期の神道家として知られた平山省斎によるものです。
柿本人麻呂を祀る神社と、そのすぐ隣に立つ山上憶良の歌碑。二人の万葉歌人が並ぶこの一角は、川越氷川神社に受け継がれてきた歌道・学問の信仰と、明治期の川越で花開いた文人文化の両方を感じられる場所です。
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