有名度
関脇大洗磯前神社
おおあらいいそさきじんじゃ
茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890番地
清良神社
更新日:2026年10月20日
大洗で非業の死を遂げた武将を祀る社
清良神社(きよらじんじゃ)は、表参道の二の鳥居のそばに鎮座するお社です。額に社名を刻んだ石造の鳥居をくぐった先、石積みの台座の上に小さなお社が建っています。銅板葺きの屋根には鰹木と千木が載り、正面の階段や縁には高欄が巡らされていて、小ぶりながら本格的な造りの社殿です。御祭神は小幡宥円命(おばたゆうえんのみこと)です。非業の死を遂げた人物の霊を鎮めるために祀られた神とされています。
小幡宥円については、戦国時代に現在の茨城町一帯を拠点とした小幡氏の人物で、『水府志料』にみえる小幡出雲守清良(義清)と同一人物と考えられています。
当時、水戸城を本拠とした江戸氏は勢力を南へ広げ、小幡氏の領域へ進出していました。享禄2年(1529)には小幡で戦死者が出ていたことが『六地蔵寺過去帳』から確認されており、小幡をめぐる緊張が高まっていたことが分かります。
そして天文元年(1532)、江戸氏は小幡義清を殺害し、小幡氏を服属させました。この出来事について『水府志料』では、小幡出雲守清良が「大洗明神下」で殺害されたと伝えています。
「大洗明神」は大洗磯前神社の旧称です。つまり、清良神社に祀られている人物は、遠く離れた場所で亡くなった武将を後世になって祀ったのではなく、この大洗磯前神社の近くで非業の死を遂げた人物と伝えられているのです。

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清良の霊を鎮めるために祀られた神
小幡宥円命は、その死後に祟りをもたらしたため、霊を鎮める目的で祀られたと伝えられています。日本では、非業の死を遂げた人物の霊が災いをもたらすと恐れ、その霊を丁重に祀ることで鎮め、やがて守護する神として信仰することがありました。こうした信仰は一般に「御霊信仰」と呼ばれ、菅原道真を祀る天満宮なども、その代表的な例として知られています。
清良神社も、戦いのなかで命を落とした小幡氏の人物を神として祀ったお社です。
興味深いのが「清良神社」という現在の社名です。1888年(明治21)に制作された『国幣中社大洗磯前神社真図』を見ると、現在の清良神社付近には「青龍社」と記されています。
一方、御祭神とされる人物については「小幡出雲守清良」とする伝承があります。「清良」と「青龍」はともに「せいりょう」と読むことができ、参拝記録には現在の「清良」の「良」はかつて「龍」と書いたとする話も残されています。
ただし、「青龍社」から現在の「清良神社」へいつ、どのような経緯で社名が変わったのかを詳しく伝える史料は確認できません。青龍という名称と小幡清良との関係についても、現段階では断定しないほうがよいでしょう。
それでも、明治時代の境内図に現在とは異なる「青龍社」の名が残っていることは、清良神社の歴史を考えるうえで興味深い資料です。

小幡義清の拠点・小幡城
小幡氏の拠点となった小幡城の跡は、現在も茨城町小幡に残されています。小幡城は茨城県内最大級の中世城郭で、昭和45年(1970)1月12日に茨城町の史跡に指定されました。
かつては室町時代の応永年間に大掾氏の一族によって築かれたという伝承がありましたが、伝承に登場する人物の実在を確認できないことから、現在の茨城町では築城者と築城年代を不明としています。ただし、発掘調査では15世紀にさかのぼる遺構や遺物が確認されており、この頃には城が築かれていたと考えられています。
城跡には現在も深く幅の広い空堀や土塁が良好な状態で残っています。空堀は複雑に入り組んだ郭の間を迷路のように巡り、変形武者走りや櫓跡、敵の進路を制限するための「折」など、中世城郭ならではの防御施設を見ることができます。
小幡氏を服属させた江戸氏にとっても小幡城は重要な軍事拠点となりました。天正13年(1585)には、江戸氏が小幡城の守備強化を命じた史料も残されており、小田氏・大掾氏などの勢力と接する地域を押さえる城として重視されていたことが分かっています。
清良神社の小さな社殿だけを見れば、二の鳥居の脇に鎮座する境内の一社に見えます。しかし、祀られている小幡宥円命の伝承をたどると、戦国時代の水戸周辺で勢力を広げた江戸氏と小幡氏の争い、そして現在も茨城町に残る巨大な小幡城へと歴史がつながっていきます。
清良神社に参拝したあと、小幡氏の拠点であった小幡城跡を訪ねてみると、この小さなお社に残された戦国時代の歴史をより身近に感じられるのではないでしょうか。
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