有名度
前頭御賀八幡神社
おんがはちまんじんじゃ
宮城県栗原市若柳有賀字八幡82
宮城県栗原市若柳有賀字八幡82

かんたんご利益
- 仕事
- 勝負
御賀八幡神社には
「仕事系」「勝負系」
のご利益があります。※かんたんご利益はご利益をジャンル毎に分けわかりやすく表示したものです。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
ご利益
想
国家鎮護 殖産興業 武運長久 成功勝利
御祭神
神社系統
この神社の主な系統は
「八幡系」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
御賀八幡神社は宮城県栗原市に鎮座する神社。御祭神は応神天皇の1柱をまつる。
社格は旧村社。
社伝では、前九年の役に出陣した源頼義・義家父子が、清原成隆、中原清房、藤原正弘らに八幡神の神輿を担がせ、敵軍の退散を祈願したと伝える。軍勢の移動に伴って神輿も移し、その安置地に八幡神を勧請して社を建てたとされ、御賀八幡神社もその一社と伝えられている。
康平5年(1062)12月、安倍貞任を討った源頼義・義家父子は、凱旋の途中で当地に軍勢をとどめた。翌康平6年(1063)正月には斐城で諸将士から年賀を受け、その後「御賀八幡」と称するようになったと伝えられている。
康平6年(1063)正月17日、源頼義らが当地を出発する際、清原成隆に神社を奉仕させ、天台宗の本孝山普養教寺を建立して別当とした。また祭田を寄進し、その土地を「宮の下」と称したと伝える。
大治2年(1127)3月、清原成隆の第三子とされる清原秀隆が神主となった。その後、普養教寺は永和年間(1375~1379)以降に荒廃した。清原秀隆の10世孫にあたる清原業隆の第二子・俊隆は修験道に入り、三僧祗権大僧都法印と称して普養教寺の旧跡へ移り、別当となったと伝えられている。
天正年間(1573~1592)には、葛西氏の家臣・渋谷式部が本社を再興した。
明治7年(1874)、御賀八幡神社は村社に列した。明治44年(1911)10月に八坂神社、同年11月に北野神社を合祀した。
境内には、源義家が弓矢を立て掛けたと伝える「弓立の杉」「矢立の杉」があった。現在は2代目の矢立の杉が残る。また、源義家が弓矢を社頭へ奉納したとの伝承も残されている。
例祭は旧暦8月15日に行われる。
社格は旧村社。
社伝では、前九年の役に出陣した源頼義・義家父子が、清原成隆、中原清房、藤原正弘らに八幡神の神輿を担がせ、敵軍の退散を祈願したと伝える。軍勢の移動に伴って神輿も移し、その安置地に八幡神を勧請して社を建てたとされ、御賀八幡神社もその一社と伝えられている。
康平5年(1062)12月、安倍貞任を討った源頼義・義家父子は、凱旋の途中で当地に軍勢をとどめた。翌康平6年(1063)正月には斐城で諸将士から年賀を受け、その後「御賀八幡」と称するようになったと伝えられている。
康平6年(1063)正月17日、源頼義らが当地を出発する際、清原成隆に神社を奉仕させ、天台宗の本孝山普養教寺を建立して別当とした。また祭田を寄進し、その土地を「宮の下」と称したと伝える。
大治2年(1127)3月、清原成隆の第三子とされる清原秀隆が神主となった。その後、普養教寺は永和年間(1375~1379)以降に荒廃した。清原秀隆の10世孫にあたる清原業隆の第二子・俊隆は修験道に入り、三僧祗権大僧都法印と称して普養教寺の旧跡へ移り、別当となったと伝えられている。
天正年間(1573~1592)には、葛西氏の家臣・渋谷式部が本社を再興した。
明治7年(1874)、御賀八幡神社は村社に列した。明治44年(1911)10月に八坂神社、同年11月に北野神社を合祀した。
境内には、源義家が弓矢を立て掛けたと伝える「弓立の杉」「矢立の杉」があった。現在は2代目の矢立の杉が残る。また、源義家が弓矢を社頭へ奉納したとの伝承も残されている。
例祭は旧暦8月15日に行われる。
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出典
宮城県神社庁
https://miyagi-jinjacho.or.jp/
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