有名度
前頭雄鋭神社
おどのじんじゃ
宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松51
宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松51

かんたんご利益
- 健康
- 仕事
- 厄除
雄鋭神社には
「健康系」「仕事系」「厄除・開運系」
のご利益があります。※かんたんご利益はご利益をジャンル毎に分けわかりやすく表示したものです。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
ご利益
想
災難除け 疫病除け 五穀豊穣
御祭神
神社系統
この神社の主な系統は
「祇園・須佐系」
です。他に 「愛宕・秋葉系」
も考えられます。
※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
雄鋭神社は宮城県栗原市に鎮座する神社。御祭神は速須佐之男命、軻遇突智命の2柱をまつる。
社格は式内社であり、旧郷社。
社蔵文書では、日本武尊が東征した際に勧請されたと伝える。雄鋭神社は、かつて現在地から西方約500mの天王山に鎮座し、旧社地は御巓山、御殿山とも呼ばれている。現在も旧社地には礎石や平坦地、池跡などが残る。
大同2年(807)、坂上田村麻呂が別当の春日山大勝院高松寺、社人7家、坊舎24宇を建立し、神領を寄進したと伝えられている。
永和年間(1375~1379)、兵乱によって神殿や社家の坊舎が焼失し、古記録も失われた。天正18年(1590)には戦乱によって一時退転した。
慶長年間(1596~1615)、雄鋭神社は天王山から現在地へ遷座し、旧社地を奥の院、現在地を里宮と称した。
安永5年(1776)以降、宮崎氏、星氏、伊藤氏、道家氏、煤孫氏、樋口氏ら仙台藩士から社領の寄進を受けた。明治維新後には、別当を務めていた高松寺が廃された。
明治4年(1871)に郷社へ列し、明治7年(1874)3月に村社へ変更された。明治42年(1909)には末社7社のほか、大鳥荒神社、愛宕神社、清水田神社、山神社を合祀し、翌明治43年(1910)には白鳥神社と八面神社を合祀した。昭和7年(1932)12月、再び郷社へ列した。
雄鋭神社では標高580.3mの大土ケ森を神体山としている。境内には鳥居や石段があり、その先に拝殿と本殿が建つ。また祖霊社が祀られ、春秋の祭礼に合わせて祭儀が行われる。春祭は4月17日、例祭は10月17日に行われる。かつては一迫・二迫・三迫の流域をはじめ、登米郡方面からも参詣者が訪れたと伝えられており、除災や病気平癒の信仰も伝わっている。
社格は式内社であり、旧郷社。
社蔵文書では、日本武尊が東征した際に勧請されたと伝える。雄鋭神社は、かつて現在地から西方約500mの天王山に鎮座し、旧社地は御巓山、御殿山とも呼ばれている。現在も旧社地には礎石や平坦地、池跡などが残る。
大同2年(807)、坂上田村麻呂が別当の春日山大勝院高松寺、社人7家、坊舎24宇を建立し、神領を寄進したと伝えられている。
永和年間(1375~1379)、兵乱によって神殿や社家の坊舎が焼失し、古記録も失われた。天正18年(1590)には戦乱によって一時退転した。
慶長年間(1596~1615)、雄鋭神社は天王山から現在地へ遷座し、旧社地を奥の院、現在地を里宮と称した。
安永5年(1776)以降、宮崎氏、星氏、伊藤氏、道家氏、煤孫氏、樋口氏ら仙台藩士から社領の寄進を受けた。明治維新後には、別当を務めていた高松寺が廃された。
明治4年(1871)に郷社へ列し、明治7年(1874)3月に村社へ変更された。明治42年(1909)には末社7社のほか、大鳥荒神社、愛宕神社、清水田神社、山神社を合祀し、翌明治43年(1910)には白鳥神社と八面神社を合祀した。昭和7年(1932)12月、再び郷社へ列した。
雄鋭神社では標高580.3mの大土ケ森を神体山としている。境内には鳥居や石段があり、その先に拝殿と本殿が建つ。また祖霊社が祀られ、春秋の祭礼に合わせて祭儀が行われる。春祭は4月17日、例祭は10月17日に行われる。かつては一迫・二迫・三迫の流域をはじめ、登米郡方面からも参詣者が訪れたと伝えられており、除災や病気平癒の信仰も伝わっている。
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神社詳細
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出典
宮城県神社庁
https://miyagi-jinjacho.or.jp/
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