有名度
前頭八幡宮
はちまんぐう
青森県平川市新舘東山117
青森県平川市新舘東山117

かんたんご利益
- 仕事
- 勝負
八幡宮には
「仕事系」「勝負系」
のご利益があります。※かんたんご利益はご利益をジャンル毎に分けわかりやすく表示したものです。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
ご利益
想
国家鎮護 殖産興業 武運長久 成功勝利
御祭神
神社系統
この神社の主な系統は
「八幡系」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
八幡宮は青森県平川市に鎮座する神社。御祭神は譽田別命の1柱をまつる。
社伝では、延暦年間(782~806年)、坂上田村麻呂が東夷征伐の際に柏崎へ陣を構え、八幡宮を創建したことを起源とする。敵が飲料水へ毒を投じたため、将軍は油沢与五左衛門に清水を探すよう命じた。与五左衛門は阿蘇神社麓の湧水を見つけて掘割を築き、陣へ水を引いたことで軍勢は危機を脱し、周辺の開拓も進んだという。将軍はその功績をたたえて地名を油沢、与五左衛門沢と名付けたと伝えられる。
翌年、与五左衛門が没すると、その霊を福場森へ葬り、将軍の守護神である八幡宮と稲荷宮を合祀するとともに、冥福を祈って釈迦如来を勧請した。これが新館鎮守八幡宮と釈迦堂の起こりとされる。また、出陣に際して敵兵を葬った場所を石仏としてまつるよう命じたことや、駒をつないだ「駒泊」、釈迦堂屋敷、釈迦堂沢など、田村麻呂にまつわる伝承地も伝えられている。
その後、慶長5年(1600年)に誉田別命を勧請し、産土神として現在の釈迦堂の地に社殿が建立された。明治元年(1868年)の神仏分離令により祭祀の形態が改められ、明治6年(1873年)には沖館神明宮へ合祀されたが、村民の強い要望により明治9年(1876年)12月に復社が許可された。翌明治10年(1877年)には現在の拝殿が建立され、村を挙げて祝祭が行われた。
その後も村社昇格を願う請願が続けられ、昭和14年(1939年)7月20日に村社への昇格が認められ、記念碑が建立された。昭和20年(1945年)の神道指令以降は、国家管理を離れた宗教法人として神社本庁に包括され、現在に至っている。
社伝では、延暦年間(782~806年)、坂上田村麻呂が東夷征伐の際に柏崎へ陣を構え、八幡宮を創建したことを起源とする。敵が飲料水へ毒を投じたため、将軍は油沢与五左衛門に清水を探すよう命じた。与五左衛門は阿蘇神社麓の湧水を見つけて掘割を築き、陣へ水を引いたことで軍勢は危機を脱し、周辺の開拓も進んだという。将軍はその功績をたたえて地名を油沢、与五左衛門沢と名付けたと伝えられる。
翌年、与五左衛門が没すると、その霊を福場森へ葬り、将軍の守護神である八幡宮と稲荷宮を合祀するとともに、冥福を祈って釈迦如来を勧請した。これが新館鎮守八幡宮と釈迦堂の起こりとされる。また、出陣に際して敵兵を葬った場所を石仏としてまつるよう命じたことや、駒をつないだ「駒泊」、釈迦堂屋敷、釈迦堂沢など、田村麻呂にまつわる伝承地も伝えられている。
その後、慶長5年(1600年)に誉田別命を勧請し、産土神として現在の釈迦堂の地に社殿が建立された。明治元年(1868年)の神仏分離令により祭祀の形態が改められ、明治6年(1873年)には沖館神明宮へ合祀されたが、村民の強い要望により明治9年(1876年)12月に復社が許可された。翌明治10年(1877年)には現在の拝殿が建立され、村を挙げて祝祭が行われた。
その後も村社昇格を願う請願が続けられ、昭和14年(1939年)7月20日に村社への昇格が認められ、記念碑が建立された。昭和20年(1945年)の神道指令以降は、国家管理を離れた宗教法人として神社本庁に包括され、現在に至っている。
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出典
青森県神社庁
http://www.aomori-jinjacho.or.jp/
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