武内宿禰 神社の神様 - 神社ファン

武内宿禰

たけのうちのすくね

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武内宿禰

表記なし

武内宿禰

国文学研究資料館(日本百将伝 - 歌川国芳 CC BY-SA 4.0)

武内宿禰

菊池容斎(前賢故実)

武内宿禰

歌川国芳(パブリック・ドメイン)

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武内宿禰とは?

武内宿禰は記紀神話に登場する古代日本の人物である。古事記では建内宿禰、日本書紀では武内宿禰と記され、ほかに建内足尼とも表記される。宿禰は古代の尊称・姓の一つである。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇と神功皇后に仕えた忠臣と伝えられ、成務天皇の時代には大臣に任じられた。
武内宿禰は特に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇をめぐる伝承で重要な役割を担う。仲哀天皇の時代には、神功皇后が神がかりして神託を受ける祭祀に加わり、天皇の崩御後は神功皇后を補佐した。神功皇后が遠征から帰還すると、香坂王・忍熊王が皇子の即位を阻もうとしたため、武内宿禰は幼い皇子を守りながら反乱への対応にあたった。この皇子が後の応神天皇である。
応神天皇の時代には皇太子を伴って近江、若狭、越前を巡り、気比大神を参拝したことが記紀に伝えられている。また弟の甘美内宿禰から謀反の疑いをかけられた際には、盟神探湯によって潔白を証明した。仁徳天皇の時代にも登場し、長期間にわたって皇室を支え続けた人物として描かれている。
記紀に記された歴代天皇の年代をそのまま通算すると、武内宿禰の生涯は300年近くにも及ぶことになる。これは実際の寿命を示すものではなく、複数の天皇に仕えたという伝承から生まれた超人的な長寿の物語である。こうした伝承から後世には長寿の象徴として崇敬され、延命長寿の神としても信仰されるようになった。和歌山市松原には武内宿禰の生誕に関係すると伝えられる井戸があり、その長寿にあやかって紀州徳川家で子が生まれた際に産湯の水として用いられたという伝承も残されている。
武内宿禰は古代豪族の祖としても重要な存在である。古事記では波多臣、許勢臣、蘇我臣、平群臣、木臣、葛城長江臣など多くの氏族の祖とされ、日本書紀でもその子孫から有力氏族が分かれたと伝えられている。このため皇室に仕えた忠臣としてだけでなく、多くの古代氏族につながる祖神としても崇敬された。
近代には忠臣・長寿の人物として広く知られ、その肖像は明治時代以降に発行された複数の紙幣にも採用された。宇倍神社では武内宿禰と社殿が紙幣の図柄となったことから、後世には商売繁盛や金運の信仰とも結びついている。
武内宿禰には延命長寿、立身出世、子育て、武運長久、勝運、商売繁盛などのご利益があるとされる。代表的な神社には宇倍神社(鳥取県鳥取市)や気比神宮(福井県敦賀市)があり、このほか各地の八幡神社などでも祀られている。

エピソード

五代の天皇に仕えた伝説の忠臣
武内宿禰《たけのうちのすくね》は、『古事記』では建内宿禰、『日本書紀』では武内宿禰と記される伝承上の人物である。孝元天皇の皇子である比古布都押之信命《ひこふつおしのまことのみこと》の子とされ、皇室の血を引く有力者として描かれている。
『日本書紀』によれば、景行天皇は武内宿禰を北陸と東国へ派遣し、各地の地形や産物、人々の様子を視察させた。武内宿禰は長期間にわたる巡察から帰ると、東国には広い土地があり、勇敢な蝦夷《えみし》が住んでいると報告した。成務天皇の時代には大臣《おおおみ》に任じられ、政治を補佐したとされる。
その後も仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の物語に登場するため、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代に仕えた忠臣といわれるようになった。記紀に記された歴代天皇の治世を通算すると、その生涯は約300年にも及ぶ。この年数は実際の寿命を示すものではないが、何代もの天皇を支えたという伝承が、武内宿禰を長寿と忠誠の象徴へ押し上げたのである。

出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、宇倍神社公式サイト「宇倍神社について」



神託を支えた武内宿禰
仲哀天皇が筑紫の香椎宮《かしいのみや》に滞在していたとき、神功皇后に神がかりが起こり、海の向こうにある国を服属させるよう神託が下った。仲哀天皇はその言葉を信じず、間もなく崩御したと記紀は伝えている。
『古事記』では、仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭《さにわ》で神託の意味を問いただした。天皇の崩御後にも武内宿禰は改めて神意を尋ね、神功皇后が身ごもっている御子が国を治めることや、神託を下した神々の名を聞き出した。この場面では、武内宿禰が神の言葉を受け止め、内容を明らかにする祭祀者の役割を担っている。
一方、『日本書紀』では、仲哀天皇の崩御後に神功皇后が自ら神主となり、武内宿禰が琴を奏で、中臣烏賊津使主《なかとみのいかつのおみ》が審神者《さにわ》を務めたとする。武内宿禰の役割は記紀で異なるが、いずれも神功皇后の神託を支える重要な立場にあった。

出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、國學院大學 古典文化学事業「墨江之三前大神」



幼い応神天皇を守り反乱軍を破る
神功皇后が後の応神天皇となる皇子を伴って大和へ戻ろうとしたとき、仲哀天皇の皇子である麛坂王《かごさかのみこ》と忍熊王《おしくまのみこ》が兵を集めて進路を阻んだ。『日本書紀』によれば、神功皇后は武内宿禰に幼い皇子を抱かせ、紀伊国《きいのくに・現在の和歌山県》方面へ迂回させて皇子の安全を確保した。
武内宿禰は紀伊で神功皇后と合流すると、和珥臣《わにのおみ》の祖である武振熊《たけふるくま》とともに軍を率い、忍熊王と対峙した。宇治川付近での戦いでは、兵士の髪の中に予備の弓弦を隠し、木刀を帯びさせたうえで、武器を捨てて和睦するよう装った。忍熊王の軍が弓弦を切り、武器を川へ投げ捨てると、武内宿禰側は隠していた弓弦を張り、実際の刀を取り出して攻めかかった。
敗れた忍熊王は逃走し、近江国《おうみのくに・現在の滋賀県》で追い詰められた。武内宿禰は皇位をめぐる争いから幼い皇子を守り、後の応神天皇の即位へ道を開いた忠臣として描かれている。

出典・参考:『古事記』、『日本書紀』



応神天皇を連れて気比大神を参拝
忍熊王との戦いが終わった後、武内宿禰は幼い皇太子を連れて禊《みそぎ》を行うため、近江国《現在の滋賀県》と若狭国《現在の福井県》を巡り、越前国《えちぜんのくに・現在の福井県》の角鹿《つぬが・現在の敦賀市》に仮宮を設けた。
『古事記』によれば、角鹿に鎮座する伊奢沙和気大神《いざさわけのおおかみ》が皇太子の夢に現れ、互いの名を取り替えたいと告げた。皇太子が承諾すると、翌朝の浜には鼻を傷つけた多くのイルカが打ち寄せていた。皇太子は、神が食物となる魚を与えてくれたと喜んだ。これにより伊奢沙和気大神は御食津大神《みけつおおかみ》とたたえられ、気比大神《けひのおおかみ》と呼ばれるようになったと伝えられている。
名を交換する相手となった皇太子は、後の応神天皇である。武内宿禰は、幼い皇太子を守って各地を巡り、気比大神との重要な出会いへ導いた。現在の気比神宮でも、武内宿禰は神功皇后や応神天皇らとともに祀られている。

出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、國學院大學 古典文化学事業「伊奢沙和気大神之命」「気比神宮」、氣比神宮公式サイト「御由緒」



弟の讒言と盟神探湯
『日本書紀』によれば、応神天皇は武内宿禰を筑紫へ派遣し、現地の人々の暮らしを視察させた。ところが、異母弟の甘美内宿禰《うましうちのすくね》が、武内宿禰は筑紫を独立させ、天下を奪おうとしていると天皇へ讒言《ざんげん》した。これを信じた天皇は、使者を遣わして武内宿禰を殺すよう命じた。
武内宿禰と姿がよく似ていた壱伎直《いきのあたい》の祖・真根子《まねこ》は、忠臣が無実のまま死ぬことを惜しみ、自ら身代わりとなって命を絶った。武内宿禰は密かに筑紫を脱出し、海路を通って大和へ戻ると、天皇の前で無実を訴えた。しかし、兄弟の主張が食い違ったため、神意によって真偽を判定する盟神探湯《くかたち》が行われた。
盟神探湯は、熱湯に手を入れ、正しい者は傷を負わないとする古代の判定法である。武内宿禰が勝ったことで潔白が認められ、甘美内宿禰の讒言であったことが明らかになった。命を狙われながらも天皇のもとへ戻り、神判によって忠誠を証明した物語である。

出典・参考:『日本書紀』、ジャパンサーチ「古事記・日本書紀 武内宿禰」



葛城氏・蘇我氏など有力豪族の祖
武内宿禰は天皇に仕えた忠臣であるだけでなく、古代の多くの有力豪族の祖として記紀に登場する。『古事記』では、武内宿禰の子孫として波多臣《はたのおみ》、許勢臣《こせのおみ》、蘇我臣《そがのおみ》、平群臣《へぐりのおみ》、紀臣《きのおみ》、葛城臣《かつらぎのおみ》などにつながる系譜が記されている。
これらの氏族は、古代朝廷で政治、軍事、外交などを担った。特に葛城氏、平群氏、蘇我氏は、後の時代に大臣を輩出した有力豪族である。紀氏や葛城氏の系譜には朝鮮半島との外交や軍事に関わる人物も多く、神功皇后の遠征や渡来人の統率に携わった武内宿禰の伝承と重なる性格を持っている。
実際の一人の人物から、これほど多くの氏族がそのまま分かれたと断定することはできない。武内宿禰の系譜には、複数の有力氏族が共有した祖先伝承がまとめられた可能性も指摘されている。しかし、多くの豪族が武内宿禰を共通の祖と仰いだことは、忠臣であり大臣の祖でもある武内宿禰の権威が、古代社会で非常に大きかったことを示している。

出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、國學院大學 古典文化学事業「氏族データベース」



長寿と商売繁盛の神となった武内宿禰
武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで五代にわたって仕えたと伝えられ、後世には長寿の象徴として信仰されるようになった。因幡国《いなばのくに・現在の鳥取県》一宮の宇倍神社では、武内宿禰命を主祭神とし、三百六十歳余りでその地に履物を残して姿を隠したと伝えている。本殿の背後には、その霊跡とされる双履石《そうりせき》が残されている。
武内宿禰は、幼い応神天皇を抱いて守る姿でも広く知られた。この姿は端午の節句に掲げる幟《のぼり》などの図柄となり、子供の成長を守る神としても信仰されている。また、忠臣として数々の困難を乗り越え、大臣として朝廷を支えた伝承から、立身出世や勝運の神徳も結びついた。
宇倍神社と武内宿禰の像は、明治32年に発行された五円紙幣に描かれ、その後も複数の紙幣の図柄となった。このことから宇倍神社では、お金に縁のある神、商売繁盛の神としても信仰されている。武内宿禰は、記紀に登場する長寿の忠臣から、長寿、子育て、立身出世、商売繁盛を守る神へと信仰を広げたのである。

出典・参考:宇倍神社公式サイト「宇倍神社について」、鳥取県神社庁「宇倍神社」、因幡万葉歴史館「宇倍神社」



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出典文献

古事記

日本書紀

神格

長寿の神

ご神徳

延命長寿 厄除け 商売繁盛 立身出世 子育て 武運長久 入試合格 勝負必勝

別称・異称

建内宿禰

たけしうちのすくね

古事記

建内足尼

たけしうちのすくね

先代旧事本紀

祀られている主な神社

高麗神社
(埼玉県日高市新堀833)
宇倍神社
(鳥取県鳥取市国府町宮下651)
武雄神社
(佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335)
平塚八幡宮
(神奈川県平塚市浅間町1-6)
若宮八幡社
(愛知県中区栄3丁目35−30)