畠山重保
はたけやましげやす
- 歴史的人物
- 男神・男性

祭神ランキング1527位
- 武人
鎌倉 [~1205年]
畠山重保とは?
畠山重保(?-1205)は、鎌倉時代前期の武将、御家人。通称は六郎。父は畠山重忠で、兄に重秀がいたが、重保の母は北条時政の娘であったので、重保が嫡子の扱いを受けていた。1204年、3代将軍・源実朝と坊門家の娘との縁談が調ったことで、その姫を迎えに重保含め15人の家臣が京都へ差し向けられた。その際に重保は京都守護・平賀朝雅と喧嘩になり、根に持った朝雅は「畠山重忠、重保親子が謀反を企てている」と北条時政に讒言した。時政が子の義時と時房に重忠討伐を相談すると、2人は重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすがはずがないと反対したが、結局は重忠を討伐することになってしまった。翌年の1205年6月22日の早朝、由比ヶ浜に謀反人が集結しているとの報を受けた重保は従者たちと浜へ向かうが、そこで待ち構えていた三浦義村の手の者に取り囲まれ、重保はなぜ自分が謀反人として討たれるのかわからないままに討ち取られてしまったという。父・重忠もまた、重保が討たれたことを知らずに鎌倉へ向かっており、武蔵国二俣川で北条義時が率いる大量の重忠討伐軍によって同じ日に討ち取られ、平姓畠山氏は滅亡となった。 神奈川県鎌倉市雪ノ下にある鶴岡八幡宮の一の鳥居西側に、重保の墓と伝わる宝篋印塔がある。
ご神徳
ご神徳は不明です。
祀られている主な神社
四條畷神社
(大阪府四條畷市南野2-18-1)
