徳川家康
とくがわいえやす
- 歴史的人物
- 男神・男性

狩野探幽 - 大阪城天守閣所蔵(パブリック・ドメイン)
祭神ランキング120位
- 征夷大将軍
戦国~江戸 [1543年~1616年]
徳川家康とは?
徳川家康(1543-1616)は戦国時代~江戸時代の武将。松平広忠の子で、徳川秀忠らの親。妻は築山殿ほか。三河国(現在の愛知県)岡崎城主の子として生まれるが、幼少期は織田氏ついで今川氏の人質として過ごした。1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると晴れて今川氏より独立。織田信長と同盟を結び、三河国および遠江国(現在の静岡県)に領土を広げた。信長の死後は一時的に豊臣秀吉と対立するが、その後は秀吉に臣従し、豊臣政権を担う有力大名となった。秀吉の晩年には五大老の筆頭となり、秀吉の死後に起きた政争を経て、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍を破った。1603年には征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開き、1615年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした。長く続いた戦乱の時代を終結させ、以後260年以上続く江戸時代の泰平の礎を築いた人物であり、江戸幕府初代将軍にして徳川家の祖としても名を遺している。
関東各地をはじめ全国には家康ゆかりの寺社が多く、家康が合戦の前に勝利祈願を行った神社なども現存する。1616年に駿府城で没すると、遺命により駿河国(現在の静岡県)の久能山に埋葬された。翌1617年には朝廷から東照大権現の神号と正一位を贈られ、一周忌を経て日光山にも勧請された。以後、家康を祀る東照宮は全国各地に建立され、江戸幕府の祖神として広く崇敬された。代表的な神社には久能山東照宮や日光東照宮などがある。主なご利益は国家安泰・開運招福・病気平癒・子孫繁栄など。
エピソード
徳川家康は、自らの死後にどこで、どのように祀られるかを生前に定めていた。『本光国師日記』によれば、家康は遺体を駿河国(現在の静岡県)の久能山に葬り、葬儀を江戸の増上寺で行い、三河国(現在の愛知県)の大樹寺に位牌を納め、一周忌の後に下野国(現在の栃木県)の日光山へ小堂を建てて勧請するよう命じたという。その目的は、日光山から関八州を守る鎮守となることであった。
元和2年(1616)4月17日に家康が駿府城で没すると、遺命に従って久能山に埋葬された。2代将軍徳川秀忠は久能山に社殿を造営するとともに、同年10月には日光山でも東照社の造営を開始した。翌年、家康に東照大権現の神号が贈られ、日光山への勧請が行われた。久能山東照宮が家康を最初に祀った全国東照宮の創祀であり、日光東照宮は関東と幕府を守護する中心的な霊場となったのである。
久能山と日光山は、どちらか一方だけが家康の墓所や祭祀地となったのではない。久能山は遺骸を葬った地として、日光山は家康自身が望んだ関八州の鎮守として、それぞれ異なる意味を持つ。家康の神格化は死後に周囲が一方的に進めたものではなく、本人の遺命を出発点として計画的に形づくられた点に大きな特徴がある。
出典・参考:久能山東照宮公式サイト「由緒・祭礼・年間行事」、国立公文書館デジタル展示「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯― 東照社竣工と宮号宣下」
徳川家康の死後、その神号をめぐって幕府内で意見が分かれた。臨済宗の僧で幕府の宗教政策を担った以心崇伝は明神号を主張し、天台宗の僧である南光坊天海は権現号を主張した。明神は神をたたえる称号であり、権現は仏や菩薩が人々を救うため、日本の神の姿を取って現れた存在を意味する神仏習合の神号である。
国立公文書館が紹介する『東叡山寛永寺元三大師縁起』によれば、天海は豊臣秀吉が豊国大明神として祀られながら、豊臣氏の滅亡後にその祭祀が衰えた先例を挙げ、明神ではなく権現とするよう主張したという。最終的に秀忠が権現号を採用し、幕府が朝廷へ神号を奏請した。朝廷からは東照大権現、日本大権現、威霊大権現、東光大権現の4案が示され、幕府が東照大権現を選んだ。
東照には東から世を照らすという意味が込められ、家康は単なる徳川家の祖先ではなく、東国から天下を照らし、平和と幕府の安泰を守る神として位置づけられた。元和3年(1617)2月21日に神号が勅許され、同年3月9日には正一位が贈られた。さらに正保2年(1645)には東照社へ宮号が宣下され、東照宮と称するようになった。東照大権現という神号は、家康を仏教と神道の双方にまたがる守護神として祀るために選ばれた名称なのである。
出典・参考:国立公文書館デジタル展示「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯― 家康の神号」、川越市「市指定史跡 東照宮」、久能山東照宮公式サイト「徳川家康公について」
東照大権現として祀られた徳川家康は、当初、徳川将軍家と江戸幕府を守る祖神として強く位置づけられた。元和3年(1617)の一周忌に秀忠が日光山へ参詣して以降、歴代将軍による日光社参は幕府の重要な行事となった。15代将軍までに行われた社参は19回に及び、家康の年忌法要も幕府を挙げて盛大に営まれた。
3代将軍徳川家光は寛永13年(1636)、日光東照宮の大規模な造替を行った。現在見られる壮麗な社殿群の多くはこの時に整えられたものであり、家康を祀る日光東照宮は幕府の権威を象徴する聖地となった。しかし、東照大権現への信仰は将軍や大名だけに限られなかった。日光には武士や庶民も参詣し、案内書や参詣図が刊行されるほどの名勝地となっていった。
江戸では家康の命日である4月17日になると、東照宮を勧請した寺社で法要が営まれ、普段は入れない増上寺の境内や、浅草寺・護国寺などに勧請された東照宮への参拝も許された。東照宮参詣は江戸庶民にとって年中行事の一つとなり、家康は幕府の政治的な祖神から、泰平の世や家々の安泰を守る身近な神へと変化していったのである。全国各地に東照宮が創建された背景には、こうした将軍家の祭祀と庶民の信仰の双方があった。
出典・参考:国立公文書館デジタル展示「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯― 将軍の日光社参と東照宮法会」「名勝地・参詣地としての東照宮」、日光市公式サイト「日光の社寺 東照宮」
ご神徳
別称・異称
とうしょうだいごんげん
その他
祀られている主な神社
日光東照宮
(栃木県日光市山内2301)
静岡浅間神社
(静岡県葵区宮ヶ崎町102-1)
上野東照宮
(東京都台東区上野公園9-88)
久能山東照宮
(静岡県駿河区根古屋389)
仙台東照宮
(宮城県青葉区東照宮1-6-1 )
