有名度
前頭吉良神社
きらじんじゃ
高知県高知市春野町西分3521番
高知県高知市春野町西分3521番

かんたんご利益
- 安全
- 厄除
吉良神社には
「安全系」「厄除・開運系」
のご利益があります。※かんたんご利益はご利益をジャンル毎に分けわかりやすく表示したものです。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。
ご利益
公
怪我除け 事故除け
御祭神
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(1柱)」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
吉良神社は高知県高知市に鎮座する神社。御祭神は吉良左京進親実の1柱をまつる。
吉良親実は、長宗我部元親の甥にあたる武将で、蓮池城主を務めた人物である。由緒では、文武にすぐれ、弘岡地区に土佐南学が広まっていた時期に朱子学にも通じていたと伝えられている。
天正14年(1586年)12月、戸次川の戦いで長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が戦死した。長宗我部家では後継をめぐる動きが起こり、元親は四男の長宗我部盛親を後継に定め、信親の娘を盛親に娶わせようとした。これに対し、吉良親実は次男の香川親和を推し、叔父と姪の婚姻にも反対したと伝えられる。
久武親直は長宗我部元親の家老で、親実と対立していた。高知市春野郷土資料館の資料には、天正15年(1587年)に奈良大仏殿へ献上する大木の伐採をめぐり、仁淀川で親実と親直が争ったことが記されている。親実は元親へ諫言を重ね、親直との対立も続いた。
天正16年(1588年)10月、親実は比江山親興とともに切腹を命じられたと伝えられる。一方で、天正17年(1589年)9月10日付の西諸木若一王子の棟札が残されていることから、親実の死去時期は天正17年9月以降、天正19年(1591年)1月以前とする説もある。
親実は小高坂で元親の使者から切腹を申し渡され、沐浴して身を清めた後に自刃したとされる。その後、永吉飛騨守、宗安寺信西、勝賀野次郎兵衛、吉良彦太夫、城内大守坊、日和田与三衛門、小島甚四郎の7人も斬られたと伝えられている。
親実の死後、小高坂の屋敷跡や木塚山の墓所周辺では怪異が起こったと伝承される。由緒では、長宗我部家や久武家に変事が続き、長宗我部元親が現在地に小祠を建て、親実の霊を祀ったことが吉良神社の起源とされている。
寛文6年(1666年)、山内藩は小高坂山にあった親実の墳墓を現在地へ改葬した。旧西分村、芳原村、内之谷村、東諸木村、西諸木村、仁ノ村、西畑の村民がこれに関わったと伝えられる。その後、家老深尾出羽守の息女である齢定院が墳墓の上に神殿を建立し、吉良大明神の尊号を奉った。
明治11年(1878年)11月には、元土佐藩主・山内豊範の主宰によって現在の社殿が建立された。
吉良親実は、長宗我部元親の甥にあたる武将で、蓮池城主を務めた人物である。由緒では、文武にすぐれ、弘岡地区に土佐南学が広まっていた時期に朱子学にも通じていたと伝えられている。
天正14年(1586年)12月、戸次川の戦いで長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が戦死した。長宗我部家では後継をめぐる動きが起こり、元親は四男の長宗我部盛親を後継に定め、信親の娘を盛親に娶わせようとした。これに対し、吉良親実は次男の香川親和を推し、叔父と姪の婚姻にも反対したと伝えられる。
久武親直は長宗我部元親の家老で、親実と対立していた。高知市春野郷土資料館の資料には、天正15年(1587年)に奈良大仏殿へ献上する大木の伐採をめぐり、仁淀川で親実と親直が争ったことが記されている。親実は元親へ諫言を重ね、親直との対立も続いた。
天正16年(1588年)10月、親実は比江山親興とともに切腹を命じられたと伝えられる。一方で、天正17年(1589年)9月10日付の西諸木若一王子の棟札が残されていることから、親実の死去時期は天正17年9月以降、天正19年(1591年)1月以前とする説もある。
親実は小高坂で元親の使者から切腹を申し渡され、沐浴して身を清めた後に自刃したとされる。その後、永吉飛騨守、宗安寺信西、勝賀野次郎兵衛、吉良彦太夫、城内大守坊、日和田与三衛門、小島甚四郎の7人も斬られたと伝えられている。
親実の死後、小高坂の屋敷跡や木塚山の墓所周辺では怪異が起こったと伝承される。由緒では、長宗我部家や久武家に変事が続き、長宗我部元親が現在地に小祠を建て、親実の霊を祀ったことが吉良神社の起源とされている。
寛文6年(1666年)、山内藩は小高坂山にあった親実の墳墓を現在地へ改葬した。旧西分村、芳原村、内之谷村、東諸木村、西諸木村、仁ノ村、西畑の村民がこれに関わったと伝えられる。その後、家老深尾出羽守の息女である齢定院が墳墓の上に神殿を建立し、吉良大明神の尊号を奉った。
明治11年(1878年)11月には、元土佐藩主・山内豊範の主宰によって現在の社殿が建立された。
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