嗚呼忠臣楠子之墓 | 湊川神社 - 神社ファン

有名度

関脇

湊川神社

みなとがわじんじゃ

兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1−1

嗚呼忠臣楠子之墓

更新日:2026年4月18日

徳川光圀公が建立した墓碑

湊川神社境内の東南隅に、「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」と刻まれた墓碑が建っています。1951年(昭和26年)に国の史跡に指定された、由緒ある遺跡です。
嗚呼忠臣楠子之墓
湊川の戦いの後、楠木正成の墓は地元の人々によってひっそりと祀られていました。その存在が初めて明らかになったのは、豊臣秀吉による太閤検地の時です。これを機に尼崎藩主・青山幸利公が五輪の供養塔を建立し、楠公への崇敬が形となって表れるようになりました。
さらに楠公を深く敬慕していたのが、大日本史の編纂を通じて日本の国柄に思いを巡らせていた徳川光圀公です。光圀公は1692年(元禄5年)に佐々木宗淳を遣わし、183両余をかけて墓碑を建立しました。この墓碑の建立により、楠木正成公の御盛徳は天下に広く知れ渡り、人々がこぞって参詣に訪れる西国の名所となったのです。
史蹟と楠木正成の墓碑と墓
墓碑は「亀趺碑(きふひ)」と呼ばれる独特の様式で造られています。四角の台座の上に神獣・贔屓(ひいき)の形に刻んだ亀趺が乗り、その甲羅の上に碑石を担ぐような三層構造です。使用されている石材にもゆかりがあり、碑石には大楠公の故郷である大阪の青和泉石、亀趺には後醍醐天皇にお仕えした京都の白川石、台座には終焉の地である神戸の御影石が用いられています。
また、表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の8文字は、光圀公自らが筆をとられたものです。裏面には、明の遺臣で儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)による賛文が刻まれています。この賛文はもともと、加賀藩主・前田綱紀公が狩野探幽に「桜井駅訣別図」を描かせた際、朱舜水が添えた文章でした。朱舜水は執筆にあたり、儒学者の安東省菴に楠木正成公の伝記を書かせ、それを百読することで熱烈な楠公崇敬者となり、心の極まるところを文章に込めたといいます。墓碑に刻まれた文字は、京都の書家・岡村元春によって謹書されたものです。
大楠公の誠忠を最もよく表したこの名文は、多くの人々を感動させました。吉田松陰はこの墓碑の拓本を松下村塾に掲げて志士の教育にあたり、横井小楠や新島襄も座右に掲げて楠公を景仰していたと伝わります。
亀趺碑

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