有名度
前頭石切剱箭神社 上之社
いしきりつるぎやじんじゃ かみのしゃ
大阪府東大阪市上石切町2丁目1255
大阪府東大阪市上石切町2丁目1255

KENPEI(wikipedia CC 表示-継承 3.0)
石切剱箭神社 上之社以外にも 石切さん でんぼの神様 とも呼ばれます。
かんたんご利益
御祭神
饒速日尊荒魂 にぎはやひのみことあらみたま
可美真手命荒魂 うましまでのみことあらみたま
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(2柱)」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
石切剱箭神社 上之社は大阪府東大阪市に鎮座する神社。御祭神は饒速日尊荒魂、可美真手命荒魂の2柱をまつる。
社格は式内社であり、旧村社。
石切剱箭神社の伝承では、創祀は神武天皇紀元2年、生駒山山頂に近い宮山に饒速日尊を祀ったことに始まるとされる。さらに崇神天皇の御代には可美真手命を祀るため下之社が創建され、宮山の社とあわせて「石切劔箭命神社二座」として祭祀が継承された。上之社は、この宮山の祭祀の流れを受け継ぐ存在である。史料上では、少なくとも9世紀には石切剱箭神社の名が確認できる。『日本三代実録』には貞観7年(865年)9月22日に神階が正六位から従五位下に進んだことが見え、『延喜式神名帳』にも社名が載る。創建当初の姿を直接伝える資料は火災により明瞭ではないが、古代から河内の有力社として認識されていたことがうかがえる。慶安3年(1650年)には宮山の御神座が光堂山、すなわち現在の上之社鎮座地へ遷され、これにより下之社に対する「上之社」という呼称が定着した。明治40年(1907年)には神社合祀政策により下之社へ合祀され、跡地には石碑のみが残されたが、崇敬は絶えず、昭和47年(1972年)に再興されて現在に至る。
現上之社の本殿は、もとは下之社本殿として造営された室町時代の建築である。昭和7年(1932年)の御本社本殿造営の際に解体保存され、上之社再興にあわせて移築されたものであり、古い社殿を今に伝える建築として重要である。
祭事は毎月22日の月次祭のほか、10月21日の秋季大祭宵宮祭、10月22日の秋季大祭例大祭が行われる。
社格は式内社であり、旧村社。
石切剱箭神社の伝承では、創祀は神武天皇紀元2年、生駒山山頂に近い宮山に饒速日尊を祀ったことに始まるとされる。さらに崇神天皇の御代には可美真手命を祀るため下之社が創建され、宮山の社とあわせて「石切劔箭命神社二座」として祭祀が継承された。上之社は、この宮山の祭祀の流れを受け継ぐ存在である。史料上では、少なくとも9世紀には石切剱箭神社の名が確認できる。『日本三代実録』には貞観7年(865年)9月22日に神階が正六位から従五位下に進んだことが見え、『延喜式神名帳』にも社名が載る。創建当初の姿を直接伝える資料は火災により明瞭ではないが、古代から河内の有力社として認識されていたことがうかがえる。慶安3年(1650年)には宮山の御神座が光堂山、すなわち現在の上之社鎮座地へ遷され、これにより下之社に対する「上之社」という呼称が定着した。明治40年(1907年)には神社合祀政策により下之社へ合祀され、跡地には石碑のみが残されたが、崇敬は絶えず、昭和47年(1972年)に再興されて現在に至る。
現上之社の本殿は、もとは下之社本殿として造営された室町時代の建築である。昭和7年(1932年)の御本社本殿造営の際に解体保存され、上之社再興にあわせて移築されたものであり、古い社殿を今に伝える建築として重要である。
祭事は毎月22日の月次祭のほか、10月21日の秋季大祭宵宮祭、10月22日の秋季大祭例大祭が行われる。
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神社詳細
正式名称
石切剱箭神社
摂末社・境内社
情報募集
例祭
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文化財
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建築
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神紋
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出典
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%88%87%E5%89%A3%E7%AE%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%88%87%E5%89%A3%E7%AE%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
