有名度
小結吉田神社
よしだじんじゃ
京都府京都市左京区吉田神楽岡町30
斎場所大元宮
更新日:2026年5月5日
斎場所大元宮とは?
京都市左京区の吉田神社境内にある斎場所大元宮は、数ある末社の中でも最も有名かつ見どころの多い社であり、吉田神道の中心施設として位置づけられる重要な存在です。中門、東神明社、西神明社、東西諸神社、八神殿跡という5つの要素から構成されており、中門は京都府の有形文化財に指定されています。知名度という点では本宮をしのぐともいわれるほどの存在です。この大元宮は、室町時代の神職・吉田兼倶によって整備された「斎場所」を基盤として成立したもので、文明16年(1484年)に吉田山へ移されました。吉田兼倶は儒教を枝、仏教を葉、道教を花実と捉えながら諸思想を統合しつつ、神仏習合を否定し、独自の教義・経典・祭祀を持つ吉田神道を確立しました。斎場所大元宮は、その思想を具体的な空間として表現した施設です。

現在の社殿は1601年(慶長6年)に再建されたもので、八角形という極めて珍しい本殿形式を持ちます。建物の半分以上を覆う茅葺屋根と千木を備えた独特の外観を持ち、この八角形構造は密教・儒教・陰陽道・道教などを統合した吉田神道の理想を象徴しています。
全国でここでしか見られない千木
屋根の両端に設けられる千木は、一般的には男神なら外削ぎ、女神なら内削ぎで統一されます。

毎月1回中門の中に入れる
通常は中門の外から参拝しますが、正月三が日や節分祭の期間、そして毎月1日のみ中門が開かれ、本殿や東西諸神社の内部を特別に参拝することができます。特に節分祭では大元宮を中心に厄除祈願が行われ、多くの参拝者で賑わいます。
全国の神社を一気に参拝できる東西諸神社
本殿には「天神地祇八百万神(あまつかみくにつかみやおよろずのかみ)」という“始まりの神様”が祀られていますが、その周囲には小さな神社のような建物がいくつも連なっています。これらは東西諸神社と呼ばれ、伊勢二宮をはじめとした全国の延喜式内社3132座がお祀りされています。
これらすべてのお社を一つひとつ参拝して回るとなると膨大な時間がかかりますが、それぞれのお社の上には神様が担当する地名が記されているため、自分に所縁のある土地の神様を探し、そのお社を選んで参拝する方も多く見られます。

八神殿跡
斎場所大元宮の境内にある八神殿は、天皇守護の八神を祀る神殿です。古代から中世にかけては宮中に祀られ、神祇官が祭祀を行っていましたが、時代とともに衰退し、応仁の乱で焼失しました。その後、宮中では本格的な再建は行われず、形式的な再建にとどまりました。やがて豊臣秀吉がその跡地に聚楽第を造営することとなり、1590年(天正18年)に吉田神社境内へ移されました。吉田神社では神祇官代として祭祀が執行され、1871年(明治4年)に皇居へ戻されるまでその役割を担っていました。現在は皇居の神殿(宮中三殿の一つ)に合祀されています。
八神殿に祀られていた神は、神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神の八柱です。江戸時代には八神殿は吉田神社と白川家邸内にのみ存在する貴重な施設となっており、吉田神社に移されたことでその信仰が現代まで継承されたといえます。

東神明社(内宮源)
八神殿跡の右後方には東神明社が鎮座していて、御祭神は天照大神です。神明造の社殿で千木は内削ぎとなっており、鳥居は八角柱の内宮源鳥居で、扁額には「内宮源」と記されています。この社は伊勢神宮から正式に勧請されたものではなく、応仁の乱後の混乱期に吉田兼倶が「伊勢の神は穢れを避けこの地に鎮座した」として内宮・外宮をこの地に祀ったことに始まります。本家の伊勢神宮はこれに抗議し、両者は一時絶縁状態となりましたが、明治以降に和解し、現在は伊勢神宮を頂点とする体系に組み込まれています。
西神明社(外宮宗)
八神殿跡の左後方には西神明社が鎮座していて、御祭神は豊受大神です。神明造の社殿で千木は外削ぎとなっており、鳥居の額には「外宮宗」と記されています。祀られた経緯は東神明社と同様で、吉田兼倶が独自の神道体系の中で伊勢神宮の神々をこの地に取り込んだものです。
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