有名度
関脇富岡八幡宮
とみおかはちまんぐう
東京都江東区富岡1-20-3
江戸勧進相撲発祥の力士関連の碑
更新日:2025年9月25日
大鳥居をくぐると正面参道沿いの右手には大関力士碑をはじめ、相撲に関係する多くの碑が建っています。富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地です。江戸時代、大阪で始まった相撲興行は問題が多く、一時禁止令が出ていました。禁止令が解かれたのは1684(貞享元)年。春・秋の勧進相撲を富岡八幡宮で行うことが許可されました。
碑に刻まれているのは、1757(宝暦7)年の初代大関・雪見山(ゆきみやま)から始まる歴代の大関102名。実際は、もっと多くの大関が存在していましたが、実力がなくても体が大きかったり見栄えがしたりするという理由で大関になれる“看板大関”も多かったため、横綱・看板力士を除いた実力派大関の名が刻まれました。現在も大関が誕生すると、新たにその名が刻まれます。
碑の高さは釈迦ヶ嶽の背丈と同じ2m27cm。13回忌に当たる1787(天明7)年、実弟である真鶴咲右衛門(まなづるさきえもん)により、野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)の近くに建立されました。
基準となっているのは、大正時代から昭和にかけて人気を集めた力士、出羽ヶ嶽文治郎(でわがたけぶんじろう)。碑には、出羽ヶ嶽関の身長、6尺7寸7分(約 2m5cm)より背の高い力士12名の四股名と身長が刻まれています。
最も身長が高いのは1830~1848年(天保~弘化年間)に活躍した力士、身長7尺 6 寸(約 2m30cm)の生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)です。
大関力士碑
大関を顕彰する碑は1983(昭和58)年、富岡八幡宮宮司・富岡興永氏の案をもとに、元力士であり記者・漫画家でもあった小島貞二氏、相撲趣味の会の加藤健治氏が調査を行い、建てられたものです。碑石には、明治時代に9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎が寄進した、2基の仙台石が使われています。碑に刻まれているのは、1757(宝暦7)年の初代大関・雪見山(ゆきみやま)から始まる歴代の大関102名。実際は、もっと多くの大関が存在していましたが、実力がなくても体が大きかったり見栄えがしたりするという理由で大関になれる“看板大関”も多かったため、横綱・看板力士を除いた実力派大関の名が刻まれました。現在も大関が誕生すると、新たにその名が刻まれます。

釈迦ヶ嶽等身碑
釈迦ヶ嶽雲右エ門(しゃかがたけ くもえもん)は、出雲国(現・島根県)生まれの江戸時代に活躍した力士です。身長7 尺 5 寸(約 2m.27cm)・体重800 匁(約180kg)という看板大関でしたが、高い技術を持つ実力派力士として人気を集めます。しかし江戸在場所中、27歳の若さで死去してしまいました。碑の高さは釈迦ヶ嶽の背丈と同じ2m27cm。13回忌に当たる1787(天明7)年、実弟である真鶴咲右衛門(まなづるさきえもん)により、野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)の近くに建立されました。

巨人力士身長碑
“釈迦ヶ嶽をはじめとする巨漢力士の背比べをひとつの石に示す”、という趣旨のもと、1983(昭和58)年に建立されたものです。この碑も大関力士碑と同様、富岡八幡宮宮司・富岡興永氏が発案、小島貞二氏と加藤健治氏が調査を行いました。基準となっているのは、大正時代から昭和にかけて人気を集めた力士、出羽ヶ嶽文治郎(でわがたけぶんじろう)。碑には、出羽ヶ嶽関の身長、6尺7寸7分(約 2m5cm)より背の高い力士12名の四股名と身長が刻まれています。
最も身長が高いのは1830~1848年(天保~弘化年間)に活躍した力士、身長7尺 6 寸(約 2m30cm)の生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)です。

強豪関脇力士碑
名力士・好力士といわれた強豪力士を顕彰する碑は、1987(昭和62)年に建立されました。基準となっているのは、現在の三賞(殊勲賞・敢闘賞・技能賞)と同様の成績や経験ですが、出場した場所が少なくてもケガや死亡等、脱退により大関になれなかった力士も考慮されています。碑に刻まれているのは、1757(宝暦7)年から1958(昭和33)年に活躍した42人の力士です。
手形足型碑
大空武左衛門(おおぞらぶざえもん)・釈迦ヶ嶽雲右衛門・九紋竜清吉(くもんりゅう せいきち)・鮨ヶ嶽源大夫・出羽ヶ嶽文治郎・竜門(りゅうもん)の手形と、生月鯨太左衛門・竜門・男山(おとこやま)の足型が刻まれています。元力士・記者・漫画家の小島貞二氏のコレクションを元に造られました。
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